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掲示版: 話題「映画における、監督について???」 (フランチェスコ)

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Re: 映画における、監督について???
muffler&silencer[消音装置]2002年01月31日00時36分更新
 フランチェスコさん、はじめまして、こんにちは。muffler&silencer[消音装置]ことサイマフです。すでに庵番畔歩人さんの「原作とネタバレ」スレッドで、一応の結論を導かれたようですが、丁度、『ハリポタ』で原作コミでreviewも書いたし、今度は『コレクター』で書こうと思っていた矢先なので、「オレにも一言言わせろ〜」な感じで書かせてくださいな。以下、長くなりそうなので、時間のある時にでもお読みくだされば、幸いです。

 いつか、コメントかreviewで使ってやろうと思ってる、僕が敬愛する先生の心に残る言葉に「人間は生涯かけてたったひとつの言葉を言おうとする…」というのがあります。シンディ・ローパーも『タイム・アフター・タイム』という曲が大ヒットした時、「どんなミュージシャンでも、音楽人生の中でたった一曲だけ、人の心を打つバラードを作るんだ」なんて感じのことを言ってて、そういう「ひとつ」と考えてくださっていいと思います。老荘思想の「一」ってな感じです。
作家にしろ、監督にしろ、俳優にしろ、画家にしろ、そして芸術家でない人たちにしろ、自分の全存在をかけて「たったひとつのことば」を言おうとしているんだと、僕は考えています。また、「たったひとつしか言えない」という<絶望>があるからこそ、「それでもひとつ言おう」という<希望>があるのだと思うのです。

さて、フランチェスコさんの言う、作品だけを純粋に評価したい、という考え、実に卓越した意見だと思います。作家から作品だけを抽出することは可能なのか、という問題でもあります。僕の答えとしてはYESです。

ここに[a]という音があります。それは、その言おうとしている「たったひとつのことば」の音のひとつです。その[a]は、「[a]そべ!」「[a]ブナイ!」「[a]ンポンタン」「[a]〜め〜まっ」「[a][a]、それは[a]れだ、[a]れですよ(鈴木清順はこんなカンジ?)」…みたく無限にあることばの中のひとつの音であるわけです。そのことばすべてを聞きたい人もいれば、[a]という音にこだわって、とことん研究する人もいるわけです。誰がどんな気分で[a]と言おうと、それは[a]に変わりないという立場を取る人もいれば、喜怒哀楽で微妙に変化する[a]に拘る人もいれば、いろんな人の[a]の違いが気になる人もいるわけですよね。簡単に言えば、[a]を作品として、そのことばを発する人が監督というわけです。

もうひとつわかりやすい例を出したいと思います。たとえば、マドンナの「マテリアル・ガール」という曲をご存知ですか?まあ、他の曲でもいいんですが、その曲がFMかなんかでかかって気に入ったとします。ただただその曲に惚れ込んで★5をつけることもできるわけです。
でも、「マテリアル〜」以外にも、マドンナの曲を聞いてみたい人もいるわけで、それでも、その曲が流行った頃のアルバム「ライク・ア・ヴァージン」を買う人もいれば、ベストアルバムを買う人もいるわけです。前者が、例えば「ライク・ア・ヴァージン」というタイトル曲の方が大好きになって、「マテリアル〜」が翳んでしまったから★4にすることもOKだと思うし、ベスト盤を聞いたら、もっともっといい曲が見つかって、「よく聞いてみたら『マテリアル〜』って音も古いし、歌詞もダセ〜」と感じたら★2にするかもしれません。「いや、それでもこの曲は、彼女と一緒に初めてドライブしたキスした時にかかった曲で(あまりいい選曲とは思えんが)、自分ではスンゲ〜思い入れがあるんだ!」と思えば★5のままでもいいわけですし、「アイツにゃ、後でひで〜目に遭わされたさっ!ケッ」と思えば★1でもいいし、冷静に判断できないから★0で保留にすることもできるわけですよね。
はたまた、マドンナに拘ることなく「マテリアル〜」に似た曲調や、歌詞が好きな人もいて、そういう感じのオムニバスCDを買う人もいれば、自分でMDを編集しちゃう人もいるでしょうし、マドンナ以外の誰か、例えばプリンスやジャニス・ジョップリンに「マテリアル〜」を歌わせたい人もいるでしょう。はたまた、「マテリアル〜」を80年代の消費文化から論じたい人もいるワケですよね。

そういう観点から作られたと、僕が勝手に解釈している、このサイトのシステムのひとつに「POV」があるのだと思います。勝手に実名を挙げて申し訳ありませんが、例えば、tomwaitsさんは音楽に、くたーさんはサイレント映画に、emauさんはブニュエル翁に、WaitDestinyさんはケビン・ベーコンに、ペペロンチーノさんは森田芳光に、inaさんは映画の「リアル」に、ヴォーヌ・ロマネさんは脚本設定に、ドドさんやドラゴン・スクリューさんはホラーやサスペンスに、toscasさんは青春映画に、僕はワケワカラン映画の<沈黙>に…とコメンテーターの数だけ、様々に映画について、お詳しかったり、興味を持たれたりするわけで、そのどれかが自分にない視点で、思わず膝を打つようなものならば、一緒に何かを「感じたい」と思う気持ちを、僕は大切にしたいし、リスペクトしたいし、そういうことができるこのサイトに参加できる喜びを常に感じています。それに、皆さん、その得意分野だけじゃなく、様々な感性で、自分なりの映画の楽しみ方、観方をされているんですよね。

とにかく、いろいろな観点から付けられた点数や、いろいろな視点・切り口から語られるコメントやreview、そのどれが正しいとか悪いとか、良いとか良くないとか、優れているとか劣っているとか、それは誰にも言えないことだと思うのです。絶対的な映画の楽しみ方なんてないし、楽しみ方も人それぞれだし、僕はだからこそ、このサイトがこれだけ楽しいんだと思うのです。それには、やはり、自分に合わない視点や切り口もあるでしょうが、それは、とどのつまり、単に自分に合わないというだけなのではないだろうか、と僕は考えています。
思えば、「カテゴリーがない」という「無・脱カテゴリー」も、裏を返せばひとつの「カテゴリー」であるわけですしね。

こうして、僕がフランチェスコさんに何か<ひとつ>のことを、伝えたいという気持ちを持って、いろんなたとえ話や例で語ること、これだって、監督と作品における関係に置き換えられるのではないでしょうか。
拙文しかも長文、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
Re: 映画における、監督について???>ごめんなさい!
muffler&silencer[消音装置]2002年01月31日10時55分更新
toscasさんじゃなくって、tacsasさんでした。本当申し訳ありませんでした。
Re: 映画における、監督について???
フランチェスコ2002年01月31日19時32分更新
サイマフ様、わからずやの子供に優しく解かり易く丁寧に(いやそれ以上かも)、ご説明ご指導いただきまして、ありがとうございます。
このサイトは、自分の思ったことを素直に表現出来ることが、素晴らしいし皆さんもはまっていらっしゃるのだと思います。
自分に合わない感覚や基準について、受け入れるだけの余裕がないというか、歴史が浅いというか・・・。心が狭いのだと思います。
わがままにお付き合い頂き、貴重な時間を削ってまでご意見いただきまして感謝しか言葉が有りません。
今後ともよろしくお願いします。フランチェスコ
こちらこそ>Re: 映画における、監督について???
muffler&silencer[消音装置]2002年02月01日02時04分更新
フランチェスコ様、クドクドと長く拙い文章、最後まで読んでくださり、そしてレスありがとうございます。
投稿してから、あまりにも長いしウンザリさせてしまうんじゃないかと考え削除しようかと思ってたくらいですし、自分宛だったらタブン読まないし(笑)、レスだって「ケッ!何言ってやがんでー」ってなもんです(爆)。でも、あの日一日考え続けていたことだったし、自分の中で気持ちを整理し、自分に言い聞かせる意味でも書いてみました。大体最近の僕は、どうも多弁でいかん、そもそも…ウッ、また長くなっちまう…
それを…こちらこそ、本当にありがとうございました。
これからも、アクのきっついオイラですが(すでにご存知かもしれませんが)、よろしくお付き合いください。そして、この世に二つとない映画へのお互いそれぞれ気持ちをぶつけ…なくても、大切にしていきましょーぞ!
Re: 映画における、監督について???
のぶれば2002年02月05日21時16分更新
ここまでの話のやりとり、とても興味深く読ませていただきました。 私も参加させて下さいね。興味ある内容なので長くなりますがお許し下さい。
>映画の内容よりも監督や脚本によって、評価が変わってしまうものが多い?…
と言うことですが、私はそういう評価で良いと考えています。監督や脚本を切り離して考えることが悪いと言うのでは無いですが、極論すれば、切り離すのは不可能でしょう。同じ原作の映画でも監督が代われば作品のテーマ変わるし、評価も変わってきますよね。いや、同じ作品のリバイバル上映でさえ、評価は変わってきます。映画評は監督や脚本どころか上映のタイミングによっても左右されます。
 
例えば「スターウォーズ」。第一作「新たなる希望(エピソード4)」が上映されて20年後に特別編が上映されました。その時には20年後だからこその評価があるわけです。また、その後「ファントム・メナス(エピソード1)」が上映されたのですが、エピソード4や特別編を観た人にとって、それらと切り離し、エピソード1だけを純粋に語る意味がどれだけあるか…。当のルーカスだって、エピソード1の評価だけを純粋に聞きたいと思ってはいないと思います。
 
例えば『ジョニーは戦場へ行った』はアメリカが戦争に向かう時期に上映され、アメリカでは余り評価されなかったと聞いています。しかし、この作品がもしベトナム戦争末期に上映されていたとしたら、また違った評価になったでしょう。スタンリーキューブリックの『フルメタル・ジャケット』は事前に『プラトーン』が公開されたことで正当な評価がもらえなかったと言う話もあります。或いは、もし仮に黒澤監督の『七人の侍』が2002年に製作・公開されたとして、同じ評価が得られるかどうか?黒澤監督がこだわった技法はあちこちでとり入れられていますが、その先陣を切ったからこそ、彼の作品は評価が高いとも言えると思うのです。
 
監督の意図の有無に関わらず、上映時期さえも評に影響するならば、当然監督の意図はもっと評に影響してくるのも無理からぬことではないでしょうか。
 
映画の評価は、実際のところ本当に様々な要因が複雑に絡まっていると言うのが私の考えです。そして、それをなるだけトータルに評価したいと思うからこそ、いろんな人の評価が気になるのだと思うのです。ですから「監督がどうであれ、良い作品は良い。」と言う評価もありでしょう。しかし一方で評価の切り口が監督というのもありだと思います。また、上映の時期を切り口にした評価もあれば、音楽や俳優、扱ったテーマを切り口にした評価もありだと思います。
 
映画(に限らないと思いますが)は、いろんな要素を含んだままで一つの作品です。それらの要素を切り離す、離さないは評価する人の自由であって良いと思うのです。もちろん、制約をかけた上での評価もありです。それはPOV等で皆さんが行っていることですが。 そうした前提の上で、私はこの場にあるいろんな評価を楽しんでいます。一人だけではどうしても切り口が限られてしまって、二次元的な評価になってしまいますが、たくさんの切り口を目にするに当たって、三次元、四次元的なものに膨らんでいくのがとても楽しいのです。
 
ですから、フランチェスコさんが当初書いておられた、『シンドラーのリスト』がスティーブン・スピルバーグが撮ったのでという理由で評価が低くなってしまう…ということは余り気にしなくても良いのではないでしょうか?寧ろ、フランチェスコさんが「それでもやはりこの作品は良い」と思っていることこそが重要だと思うのです。つまり、フランチェスコさんは、『シンドラーのリスト』に対して御自身の確固とした評価を持っている訳ですから、その評価には説得力が伴ってきますよね。
 
そういう説得力がある評価がたくさん集まるこのサイト、考えてみればとても魅力的です。この場にそんないろんなこだわりのある評価がたくさん集まり、それらが総体となって初めて、作品の評価がより客観的になっていくと言えるのでないか…。私はそんな風に思っているのです。(以上、長文にて失礼し候。)
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