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掲示版: 話題「映画における、監督について???」 (フランチェスコ)

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映画における、監督について???
フランチェスコ2002年01月23日13時42分更新
皆さんはじめまして!新参者のフランチェスコと申します。素朴というか、素人ならではの疑問なのですが、皆さんが映画についてコメントされている内容を見ると、監督について意見されていることが多く感じます。私のような素人にとっては、誰が監督か、脚本か、などということはまったく気にせず見ているのですが、映画の内容よりも監督や脚本によって、評価が変わってしまうものが多い?のでしょうか?
例えば『シンドラーのリスト』という映画についてですが、個人的に非常に良い映画だと思っておりますが、コメンテーターの方によってはスティーブン・スピルバーグが撮ったのでという理由で評価が低くなってしまうものもあります。 もしそうであれば非常に残念に感じるのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか?
私自身も今後、色々な知識(映画について)を身に付けていった場合は皆さんと同じように、監督や脚本について気になるようになっていくと思いますが、それは純粋に映画を評価したことになるのか?という疑問があります。そう思いませんか? 乱筆乱文お許しください。
Re: 映画における、監督について???
グラント・リー・バッファロー2002年01月23日22時42分更新
 フランチェスコさん、はじめまして、グラント・リー・バッファローと申します。私も若輩者で、映画の見方に戸惑う毎日ですが、一つ確かなのは、映画における脚本・監督が誰であるかという要素が、どの映画を観るのかを考えるうえで、一番ブレが少ないということだと思います。
 出演俳優や宣伝や知人の勧め以上に、好きな監督の作品には、脳に新たな刺激を与えてくれる確率が多いように思われます。(もちろん宣伝などの要素を軽視しているわけではないですが…)
 一人の監督の作品を何本か観ることで、その監督の新作が出てきたときに、旧作と比較するという評価軸が出てくるのは、作品を評価するうえでの重要な基準の一つであることは間違いないと思います。こうした基準ではなく、他の基準を用いている方もいると思いますが、いずれにしろ他の人から見た不可解にしか思えないのかもしれない各自の基準を使わなければ、コメントや批評をすることは困難であると思います。『シンドラーのリスト』におけるスピルバーグの存在もしかりです。また、監督の文脈を離れ一個の作品として見るべき、という問題は小説にしろ、演劇にしろ、マンガにしろ、あらゆる芸術に関わる問題(このサイトのコメントとコメンテーターの関係にも?)につながるかと思います。無知蒙昧な私にはそれ以上確かなことは言えず、諸先輩がたの話をうかがいたいと思います。
 ちなみに、私も『ストレイト・ストーリー』を観たとき、他のデビット・リンチ 作品も観ていたので、戸惑いをおぼえ、監督という基準ばかりでは見ていては正しく捉えられないのかもしれないと思いました。ただ自分のコメントを見返すと、私は間違いなく作家主義のようです。フランチェスコさんの問いにあまりお答えできていないかもしれませんが…。
Re: 映画における、監督について???
ペペロンチーノ2002年01月24日00時08分更新
「映画における作家性」がアイアン・メイデン(訂正)永遠の命題である私から・・・・・と思ったのですが、やたら長くなってしまうので一つだけ。
>映画の内容よりも監督や脚本によって、評価が変わってしまうものが多い?のでしょうか?
というフランチェスコ様の素朴な疑問に。
友人の実話。
夜中、何気なくテレビをつけたら古い映画をやっていた。
何気なく観ていたらメチャメチャ面白い。ついそのまま最後まで見入ってしまった。
映画が終わって初めてアルフレッド・ヒッチコックの『バルカン超特急』だと知ったという。
これは「本当に面白い映画は監督や役者の名前に左右されない」という好例です。
彼はヒッチコックの名にだまされたわけでもなければ(ま、私くらいのヒッコリアンになるとタッチだけで判別できるがな。デ・パルマと間違えるかもしれないけど)、寄せて上げるブラにだまされたわけでもない(しつこいな)。
ここで断言家の私は断言します。
「映画の内容」より「監督」や「脚本」が優先されるということはあり得ません!
(正確にはそこに相互関係が生じているはずですけど)
しかし、そこに「好み」は存在します。
映画というのは物語や画面や音楽を全部いっぺんに体験しなければならないから分かりにくいかもしれませんが(それ故最も理解し易い物語部分に脳が支配される場合が多いのですが)、小説や音楽や絵画同様作り手の個性があるのは当然のことです。
例えばピカソの絵。上手くてきれいな絵やイラストは世の中に数多くありますが、あの強烈な個性は二つと存在しない。その個性(=作家性)に対してファンが生まれる。映画でも同じです。
そもそも表現の手段の一つである映画とその作家性とは、または私は如何にして心配するのを止めて作家を語るようになったか・・・あ〜長くなるからやめよう。
(もう充分長い。しかも中途半端で答えにもなってない。すいません)
Re: 映画における、監督について???
kazby2002年01月24日00時19分更新
 はじめましてフランチェスコさん。kazbyっていいます。
 そういわれれば、スピルバーグ監督の作品の評価は、かなりばらついています。 でも、観てる人の数もすごく多いんです。それだけ、皆さん気になっているってことで、期待度も大きいから、がっかりされる方も相当に多いってことは予想されます。 だけど、スピルバーグ監督は、ほんとに精力的に仕事をしていて、どしどし映画を作っていますよね。 今日も休みなく働いているんだろうなと思うと。尊敬してしまいます。
 グラント・リー・バッファローさんのおっしゃるように、私なども、それまでの情報を参考にして、観る映画を選ぶことは多いです。 新しいレコードを買うときも同じで、プロデューサーや、参加ミュージシャンは、絶対チェックしないと不安です。 それでも、”よし!”っていうのは、5回に一回くらいです。最近は、数打ちゃ当たると初心に返って、あれば何でも観るようにしています。
 ところで、”嫌い嫌いは、好きのうち”ってよく言われますが、相性の悪い監督っていうのは、ひょっとしたらあるかもしれないと私は思っています。 その監督の映画を観て、いつも何か、おなかの中にどす黒いものを抱えてしまうんです。 そして、ひょっとしたら観ないほうが良かったんじゃないんだろうかと。 ヒトが、傷ついたり死んだりする場面の描写に、すごく冷酷で、残忍なところがあって、何もこんな撮り方じゃなくても...と恨めしくさえ思う。 でも、負けるもんかと、歯を食いしばりながらもやっぱり観てしまうんですね。 そして、”あのシーンさえなけりゃ5点なのになあ...ぶつぶつ、しかし、難解な映画だったなあ...ぶつぶつ”てなことに。  そんな時、”この人はいったい...”と作者の人物像を勝手に作り上げ、わざとやってるとか、人を馬鹿にしてるだとか、何か欠陥を指摘したりしようとする自分に気がつきます。 その映画自体が、自分にとって単に”しょーもなー”っていって、片付けられない内容であるがゆえに、です。
Re: 映画における、監督について???
バーボンボンバー2002年01月24日02時28分更新
一つの世界を作り上げることができる職業は数少なく、作家と映画監督と落語家だと僕は感じています。
例えば、落語を少し聞いたことがある人なら分かるでしょうが、笑点のメンバーの中だけで考えても、喜久蔵と歌丸が同じ演題を演じても全然雰囲気が違うだろうということが想像できると思います。
それと同じように、同じ脚本を映画にしてもやっぱり監督によって全く違う話の綴り方、描き方になると思うのです。『シンドラーのリスト』であっても、例えばチャップリンパゾリーニが撮ったら、全く違う映画になるでしょう。それは映画というのはあくまでも映画監督の「作品」であるからだと思います。スピルバーグは『シンドラーのリスト』をあのように大勢の出演者を使って「スケールの大きい」、やはりスピルバーグ味を出してきていたと感じました。その展開の激しさや壮大さに納得がいかなかった人がフランチェスコさんの言うような「スピルバーグが監督だから…」というコメントを書いたのだと思います。
上でチャップリンやパゾリーニという名前を出しましたが、なんでその二人を出したんだか分かりません。ゴメンナサイ
偉そうに語ってますが、一応ひとつの考えとしては、僕はこう考えているのであります。
でもやっぱり「映画作家」というのは何なのか、一言に語れるものでは無く、僕もアイアンメイデンなんだと思います。
アイアンメイデンのベースが好きです。
Re: 映画における、監督について???
フランチェスコ2002年01月24日13時05分更新
皆様フランチェスコです。レスありがとうございます。
私自身の監督や脚本家へ知識が増えていくにしたがって、映画に対しての純粋な評価が出来にくくなる。それに伴って、自分の個性(趣味)が洗練されてきて、尚且つ監督の作品という形での評価に変わっていく(良い意味で)。そんな気がしました。
いずれにしても、監督や脚本家は映画を批評、賞賛するにあたって避けては通れないものというふうに感じましたし、監督や脚本家、さらには役者やスタッフ全てを含めての評価、という考え方も必要だと思いました。
しかしながら皆様も少なからず、純粋に映画としての評価をするべきではないか?という気持ちも持っていらっしゃることも解かりました。
何時まで出来るか解かりませんが、今後もあまり監督や脚本家に影響されないような、映画鑑賞が出来るようにしていきたいとも思いました。ありがとうございました。
Re: 映画における、監督について???
ina2002年01月24日19時09分更新
はじめまして、フランチェスコさん。inaと申します。私は映画を見るときけっこう監督を重視します。特に新作のロードショウの時は「あの監督だからたぶん面白いだろう。」と選ぶ基準にしています。しかし観た後の評価はいくら好きな監督だからといっても関係ありません。たぶん・・・。「あの天才監督なのになぜ?」とか「いまいち監督なのに今回はいいじゃない」となるべく作品で評価しようと思っていますがやはり人間なので好きな監督にはあまく悪い所もそれも個性と思ってしまいます。 けれどもやはり映画は監督のものです。小説も作者で選ぶし、絵も作者で選びます。 ただ、音楽は作曲家より歌手かな。 結局ただ「選ぶ」基準にはなると思います。
Re: 映画における、監督について???
ワトニイ2002年01月24日19時57分更新
フランチェスコさん,はじめまして。ワトニイといいます。
基本的には,私もすでに皆さんがおっしゃっているのと同じ考えです。映画って,全体の構成や細部の作り方もさることながら,作品全体の世界観に監督の個性が如実に反映されるものだと思います。だから私の場合も,作品を観るか観ないかを判断する際に,監督は大きな要素になっています。
ただ,ちょっと違った,皮肉っぽい面から,もう一点だけ問題提起させていただきたいと思います。
それは,評価する際に,監督名によるブランドの威力というか,レッテル効果みたいなものが無意識のうちに多少出ているのではないか?ということです。もちろん殆どの人が監督名ではなく内容で評価しているはずですし,いくら好きな監督でも作品の出来が悪ければ,それなりの評価しかしないでしょう。
ただ,私自身の反省も込めて申し上げれば,やっぱり無意識のうちに,好きな監督の作品にはやや甘くなりがちな反面,肌の合わない監督の作品は欠点の方に目がいきがち…という面がどうしても拭えないような気がします。こうした「アバタもエクボ」的な傾向は,べつに映画だけでなく,著名人の話の内容やいろんな商品の質の評価でも同じだとは思いますが…。『料理の鉄人』なんかでも,”鉄人が作った”とわかっていて食べるから,判定にもきっと少しは影響してる気がしますし。有名・無名の監督の作品を監督名を伏せて観たらどうなるのか? 映画ファンを対象にこんな実験をやったら,一体どうなるのでしょうね?
こうした面は,人間だから避けられないことでしょうが,ペペロンチーノさんのお友達の例などは,そうではなく,きちんと内容を観ているという好例だと思います。私も常にこうありたいと思いますが,なかなか…(^_^;)。
でも,そうした面があるからこそ,さまざまな観方をされる方が自由にコメントを発表できるこのサイトの意義も一層大きいのかもしれませんね(^_^;)。
Re: 映画における、監督について???
死ぬまでシネマ2002年01月25日00時58分更新
 こんにちは,死ぬまでシネマです。フランチェスコさん自身も,「監督銘の宣伝効果」を半ば認めつつ,しかし純粋な作品の評価が歪んで良いのか,と皆に意見を乞うているようにお見受けしました。早々にまとめの言葉で締められたようですが,ぼくも一言。
 これはあらゆる芸術に多かれ少なかれ起こり得る事で,作品評価において仕方のない事です。作家から入る,或いは作家を辿る,というのはグラント・リー・バッファローさんも仰る通り,他の方法よりかなり確実です。映画は簡単には創れませんので,言い換えれば完成した映画には相当監督の個性が注がれています。そのひとの作品であると知って初めて理解が出来る作品すらあります。しかしフランチェスコさんも云う通り,「本当は」作品の前に監督名が介入してくる事は,いけない事でしょう。ほくらは矢張り「先ずは謙虚に作品そのものに対する」という心構えが必要だと思います。
フランチェスコさん、鋭い質問ですね
mize2002年01月25日04時25分更新
 すみません、皆さんとほぼ同意見なのですが、興味深い話題なので書かせて下さい。
 フランチェスコさん、素人ならではの質問などと言いつつも、なかなか鋭い質問だなぁと私は感じました。私自身は本数的に多く観ている方だと思いますが、いつの間にか当たり前のように監督やスタッフで選んでました。なので、今では公開前から監督や配役で大体の予測をつけてしまってます。
 でもそれでも内容次第で先入観を吹っ飛ばしてくれる事もあります。例えばぶっちゃけた話ポール・バーホーベン監督が大嫌いなのですが、ある悲惨でとことんツイてなかった大晦日に「こうなったら独りで残虐な映画でも観よう」と『スターシップ・トゥルーパーズ』を借りました。しかし観るうちに「お?バーホーベンいい仕事してるじゃん。あんたの度はずれた残虐描写もこういう形ならイケるよ!」とスカッとして大満足という事がありました。しょーもない映画なんですけどね…。あんまりいい例えじゃありませんでしたが、監督主体で観ても上映中は純粋に内容を味わってるものかと思います。
 それに「●●節」と言えるような、独自の作風が確立しているような監督の場合、ファンとしては冒頭のシーンから「お!●●節だねぇ」とグイグイ引き込まれるというお楽しみもあります。そういう監督の場合、良くも悪くも作品自体が「ファンの集い」風だったりするので、コメントに「●●監督らしい」とつい書いちゃっても作品への純粋な評価になりうる気がします。
 ただフランチェスコさんが例えに出したスピルバーグなんですが、本当にフランチェスコさんの指摘は素人とは思えない鋭さですね。たしかに先に私が挙げた例には当てはまらない監督という気がします。彼は映画界でも「お子様映画の監督のくせに」と言われ、なかなかシリアス映画を評価されなかった監督だと思います。最近は受賞したりしてそういうレッテルも少なくなったと思いますが、やはりビッグネーム&ヒット作多数ゆえに先入観が強いですね。それと、あまりにシリアス映画とファミリー映画のイメージの落差が激しすぎるので、どうしても批評するときに戸惑ってしまうのです。確かにそういう時「自分はちゃんと作品自体を評価してるのかな?」とは不安になります。難しい問題ですね。
 個人的に、監督とは歌に対する作曲家のようなモノだと思うので、やはり突然ジャンルの違う曲を作ったりした場合、「あの●●が…」と楽曲自体の出来に加えて、作曲家の存在も批評に影響しちゃうのかも知れません。
 監督に限らず、例えば自分が生まれる前の映画を観るときも世代のギャップを感じてツマらなく感じたり、逆に新鮮に感じて当時に観た人達より高い評価になったり、どうしても純粋に内容そのものを評価するのは難しいようです。子供時代に愉しんだ映画を20年後に見直したらガッカリする事もありますし、失恋直後に観たらドンピシャにハマってお気に入りになったり、逆に生涯のワースト映画になったり……ん?なんだか本題と外れてしまいましたが、とにかく、これから沢山の映画を新鮮に愉しめるフランチェスコさんが羨ましいです!一番楽しい映画との時間かもしれません(いえ私も今でも映画を愉しんでますが…やはり見始めの頃に比べるとナナメ観なんかも憶えちゃって…)。長文失礼しました。
Re: 映画における、監督について???
らいてふ2002年01月25日04時48分更新
う〜ん、みなさん、結構ストイックですねえ。わたしは、作品をより楽しめるのであれば、有名監督や、ごひいき俳優の効果も、許せちゃいます。お目当ての監督さん、俳優さんに夢中!っていう楽しみ方も、映画の醍醐味のひとつじゃないでしょうか。
映画っていろんな(多角的な)楽しみ方があっていいと思うんです。たとえば『エイリアン』シリーズ。単に4本の続き物として観るだけでなく、他の作品でも名をはせている4人の鉄人監督が「エイリアン」という素材をどう個性的に料理したか、という点に注目してみるという楽しみ方だってありますよね。
映画って客観的な評価対象である前に、個人が主観的に楽しむためのものだと思うから、たとえそれが作品の中で語られていることでなくても、「なるほど、そんな楽しみ方があったのか〜」というコメントを拝見すると、私は嬉しくなります。
Re: 映画における、監督について???
フランチェスコ2002年01月25日13時11分更新
皆さんフランチェスコです。多数のご意見、ご主張またはご指導感謝いたします。
私自身、気軽に書き込んだのですが、予想以上の反響に驚いております。また中には、私の疑問が素人ながらに新鮮に思って下さっている方もいらっしゃる事を考えますと、表記の件を書き込んだ意味が少しはあったと喜んでおります。
らいてふ様のエイリアンについて、私はシリーズを別々の監督が指揮していたとは知りませんでした。そんな楽しみ方もあるんだ〜と考えさせられました。
グラント・リー・バッファロー様の好みの監督や脚本家の作品を見ることで、新たな刺激を与えてくれる確率が高い。という意見も一理があると思います。
ペペロンチーノ様の監督という個性に対してファンが生まれる。しかしながら、作品自体より監督や、脚本が優先されることは無いと断言。しつつもさらに作家に対する熱い思いが伝わってきます。
kazby様の監督に対する相性みたいなものは、この先感じてくるものかもしれません。
バーボンボンバー様の落語の比喩は良く理解できました。
ina様の映画は監督の作品という考え方は、私の疑問が少し解消されました。
ワトニイ様は映画を選ぶ基準になるとお考えながら、私と同じような疑問も感じていながらも、このサイトの意義みたいなものも説いていらっしゃいます。
ザ・ミゼラブル様の監督の独特の作風みたいなもののファンがいることは、深くその監督を追いかけなければ解からない、ファン特有の楽しみみたいなものがあるんですね!
死ぬまでシネマ様がおっしゃられているように、中途半端に締めくくってしまいましたが、その後も「一言、言わせろ〜」と思ってるヘビーコメンテーターのかたがいらっしゃると思いますので、もう少しご意見ご感想などを書き込みいただくと、ありがたく思います。
Re: 映画における、監督について???
2002年01月25日20時58分更新
はじめまして、フランチェスコさんby
実はぼくは異常なくらい監督で観ます。 ぶっちゃけて言えば、その監督の生い立ちとか、発言とか、風貌とか、 好きな音楽とか映画とか、付き合ってる女性とか、エッセイとか・・・後は「噂の真相」的な知的下半身な話題も含めてその監督に関するあらゆるものをひっくるめて映画を観ちゃいますね。 性質の悪い感情移入型人間なので(笑)。
たとえばショーン・ペンとかの映画だったら、 もう「これは俺の日記を盗みやがったな?」(書いてるわけねぇ〜!!)とか、「俺の心読んだ?」(以心伝心?!)とか、「ショーン・ペンは俺だぁぁ〜〜〜」とか「ショーン・ペンのことを世界で一番わかってるのは俺だよな」とか言って悦に入っちゃいますね(ウザっ!!!)。 逆にタランティーノの映画なんて全く冷静に観れたためしがない。イライラして、アラ探しばかりしちゃう。「てめぇ〜に言われたくないよ!!!」みたいな?
このサイトに倣って映画批評的に言えば、80年代以降の映画ってまさに作家主義崩壊の過程だったと思うんですよ。 例えばハリウッド映画だったら、エンドクレジットがどんどん長くなってることからも わかるように、映画に携わる人間の数が異常に増えてる。 その中で映画の内容をたった一人の人間(監督)に還元するのはあまりに難しい。 んだけども、やっぱりその監督の個別性・固有性って、どうしても出ちゃうじゃないですか? 今、切実な映画監督ならみんな、その「作家性と非作家性のジレンマ」の中で映画を撮ってるんじゃないかな、とぼくは思ってます。スピルバーグなんて、まさにその典型ですよね。
本題からズレてしまいますが…巴さんへ
mize2002年01月25日21時57分更新
しつこく再登場してすみません。
 巴さん、「80年代以降の映画はまさに作家主義崩壊の過程」という部分、なるほど〜と思いました。
 私の昨日の書き込みの「●●節」というのは、実はウディ・アレンをイメージして書いていたのですが、彼は現代において自分のペースを保って仕事している数少ない監督だと思います。
 彼のインタビュー本に本人自身も、口を一切出さずに撮らせてくれる会社に巡り会って幸運だった、と言っていたと思います。興行成績も全く気にする必要がなく、年一本のペースで淡々と撮れる監督なんてそうはいません。最近ガス・ヴァン・サントサム・ライミスティーブン・ソダーバーグなどが今までの作風をガラッと変えてますし、作家性を保つにも現在はなんか色々あるのかも知れませんね…。
Re: 映画における、監督について???
ina2002年01月25日23時42分更新
こんにちは、フランチェスコさん。inaです。またまた少しだけ意見を聞いてください。 「映画は監督のもの」と言いましたが、ときたま俳優のものになる時があります。「ローマの休日」のヘップバーン、「理由なき反抗」のジェームス・ディーン、「ランボー」「ロッキー」シリーズのスタローン。この映画はあなたのものだよ、あなたが出てなければこの映画は違う映画だよ。という映画もよくあるかもしれません。このような監督の演出より俳優の圧倒的な「存在感」で成り立っている映画もきらいではありません。
Re: 映画における、監督について???
muffler&silencer[消音装置]2002年01月31日00時36分更新
 フランチェスコさん、はじめまして、こんにちは。muffler&silencer[消音装置]ことサイマフです。すでに庵番畔歩人さんの「原作とネタバレ」スレッドで、一応の結論を導かれたようですが、丁度、『ハリポタ』で原作コミでreviewも書いたし、今度は『コレクター』で書こうと思っていた矢先なので、「オレにも一言言わせろ〜」な感じで書かせてくださいな。以下、長くなりそうなので、時間のある時にでもお読みくだされば、幸いです。

 いつか、コメントかreviewで使ってやろうと思ってる、僕が敬愛する先生の心に残る言葉に「人間は生涯かけてたったひとつの言葉を言おうとする…」というのがあります。シンディ・ローパーも『タイム・アフター・タイム』という曲が大ヒットした時、「どんなミュージシャンでも、音楽人生の中でたった一曲だけ、人の心を打つバラードを作るんだ」なんて感じのことを言ってて、そういう「ひとつ」と考えてくださっていいと思います。老荘思想の「一」ってな感じです。
作家にしろ、監督にしろ、俳優にしろ、画家にしろ、そして芸術家でない人たちにしろ、自分の全存在をかけて「たったひとつのことば」を言おうとしているんだと、僕は考えています。また、「たったひとつしか言えない」という<絶望>があるからこそ、「それでもひとつ言おう」という<希望>があるのだと思うのです。

さて、フランチェスコさんの言う、作品だけを純粋に評価したい、という考え、実に卓越した意見だと思います。作家から作品だけを抽出することは可能なのか、という問題でもあります。僕の答えとしてはYESです。

ここに[a]という音があります。それは、その言おうとしている「たったひとつのことば」の音のひとつです。その[a]は、「[a]そべ!」「[a]ブナイ!」「[a]ンポンタン」「[a]〜め〜まっ」「[a][a]、それは[a]れだ、[a]れですよ(鈴木清順はこんなカンジ?)」…みたく無限にあることばの中のひとつの音であるわけです。そのことばすべてを聞きたい人もいれば、[a]という音にこだわって、とことん研究する人もいるわけです。誰がどんな気分で[a]と言おうと、それは[a]に変わりないという立場を取る人もいれば、喜怒哀楽で微妙に変化する[a]に拘る人もいれば、いろんな人の[a]の違いが気になる人もいるわけですよね。簡単に言えば、[a]を作品として、そのことばを発する人が監督というわけです。

もうひとつわかりやすい例を出したいと思います。たとえば、マドンナの「マテリアル・ガール」という曲をご存知ですか?まあ、他の曲でもいいんですが、その曲がFMかなんかでかかって気に入ったとします。ただただその曲に惚れ込んで★5をつけることもできるわけです。
でも、「マテリアル〜」以外にも、マドンナの曲を聞いてみたい人もいるわけで、それでも、その曲が流行った頃のアルバム「ライク・ア・ヴァージン」を買う人もいれば、ベストアルバムを買う人もいるわけです。前者が、例えば「ライク・ア・ヴァージン」というタイトル曲の方が大好きになって、「マテリアル〜」が翳んでしまったから★4にすることもOKだと思うし、ベスト盤を聞いたら、もっともっといい曲が見つかって、「よく聞いてみたら『マテリアル〜』って音も古いし、歌詞もダセ〜」と感じたら★2にするかもしれません。「いや、それでもこの曲は、彼女と一緒に初めてドライブしたキスした時にかかった曲で(あまりいい選曲とは思えんが)、自分ではスンゲ〜思い入れがあるんだ!」と思えば★5のままでもいいわけですし、「アイツにゃ、後でひで〜目に遭わされたさっ!ケッ」と思えば★1でもいいし、冷静に判断できないから★0で保留にすることもできるわけですよね。
はたまた、マドンナに拘ることなく「マテリアル〜」に似た曲調や、歌詞が好きな人もいて、そういう感じのオムニバスCDを買う人もいれば、自分でMDを編集しちゃう人もいるでしょうし、マドンナ以外の誰か、例えばプリンスやジャニス・ジョップリンに「マテリアル〜」を歌わせたい人もいるでしょう。はたまた、「マテリアル〜」を80年代の消費文化から論じたい人もいるワケですよね。

そういう観点から作られたと、僕が勝手に解釈している、このサイトのシステムのひとつに「POV」があるのだと思います。勝手に実名を挙げて申し訳ありませんが、例えば、tomwaitsさんは音楽に、くたーさんはサイレント映画に、emauさんはブニュエル翁に、WaitDestinyさんはケビン・ベーコンに、ペペロンチーノさんは森田芳光に、inaさんは映画の「リアル」に、ヴォーヌ・ロマネさんは脚本設定に、ドドさんやドラゴン・スクリューさんはホラーやサスペンスに、toscasさんは青春映画に、僕はワケワカラン映画の<沈黙>に…とコメンテーターの数だけ、様々に映画について、お詳しかったり、興味を持たれたりするわけで、そのどれかが自分にない視点で、思わず膝を打つようなものならば、一緒に何かを「感じたい」と思う気持ちを、僕は大切にしたいし、リスペクトしたいし、そういうことができるこのサイトに参加できる喜びを常に感じています。それに、皆さん、その得意分野だけじゃなく、様々な感性で、自分なりの映画の楽しみ方、観方をされているんですよね。

とにかく、いろいろな観点から付けられた点数や、いろいろな視点・切り口から語られるコメントやreview、そのどれが正しいとか悪いとか、良いとか良くないとか、優れているとか劣っているとか、それは誰にも言えないことだと思うのです。絶対的な映画の楽しみ方なんてないし、楽しみ方も人それぞれだし、僕はだからこそ、このサイトがこれだけ楽しいんだと思うのです。それには、やはり、自分に合わない視点や切り口もあるでしょうが、それは、とどのつまり、単に自分に合わないというだけなのではないだろうか、と僕は考えています。
思えば、「カテゴリーがない」という「無・脱カテゴリー」も、裏を返せばひとつの「カテゴリー」であるわけですしね。

こうして、僕がフランチェスコさんに何か<ひとつ>のことを、伝えたいという気持ちを持って、いろんなたとえ話や例で語ること、これだって、監督と作品における関係に置き換えられるのではないでしょうか。
拙文しかも長文、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
Re: 映画における、監督について???>ごめんなさい!
muffler&silencer[消音装置]2002年01月31日10時55分更新
toscasさんじゃなくって、tacsasさんでした。本当申し訳ありませんでした。
Re: 映画における、監督について???
フランチェスコ2002年01月31日19時32分更新
サイマフ様、わからずやの子供に優しく解かり易く丁寧に(いやそれ以上かも)、ご説明ご指導いただきまして、ありがとうございます。
このサイトは、自分の思ったことを素直に表現出来ることが、素晴らしいし皆さんもはまっていらっしゃるのだと思います。
自分に合わない感覚や基準について、受け入れるだけの余裕がないというか、歴史が浅いというか・・・。心が狭いのだと思います。
わがままにお付き合い頂き、貴重な時間を削ってまでご意見いただきまして感謝しか言葉が有りません。
今後ともよろしくお願いします。フランチェスコ
こちらこそ>Re: 映画における、監督について???
muffler&silencer[消音装置]2002年02月01日02時04分更新
フランチェスコ様、クドクドと長く拙い文章、最後まで読んでくださり、そしてレスありがとうございます。
投稿してから、あまりにも長いしウンザリさせてしまうんじゃないかと考え削除しようかと思ってたくらいですし、自分宛だったらタブン読まないし(笑)、レスだって「ケッ!何言ってやがんでー」ってなもんです(爆)。でも、あの日一日考え続けていたことだったし、自分の中で気持ちを整理し、自分に言い聞かせる意味でも書いてみました。大体最近の僕は、どうも多弁でいかん、そもそも…ウッ、また長くなっちまう…
それを…こちらこそ、本当にありがとうございました。
これからも、アクのきっついオイラですが(すでにご存知かもしれませんが)、よろしくお付き合いください。そして、この世に二つとない映画へのお互いそれぞれ気持ちをぶつけ…なくても、大切にしていきましょーぞ!
Re: 映画における、監督について???
のぶれば2002年02月05日21時16分更新
ここまでの話のやりとり、とても興味深く読ませていただきました。 私も参加させて下さいね。興味ある内容なので長くなりますがお許し下さい。
>映画の内容よりも監督や脚本によって、評価が変わってしまうものが多い?…
と言うことですが、私はそういう評価で良いと考えています。監督や脚本を切り離して考えることが悪いと言うのでは無いですが、極論すれば、切り離すのは不可能でしょう。同じ原作の映画でも監督が代われば作品のテーマ変わるし、評価も変わってきますよね。いや、同じ作品のリバイバル上映でさえ、評価は変わってきます。映画評は監督や脚本どころか上映のタイミングによっても左右されます。
 
例えば「スターウォーズ」。第一作「新たなる希望(エピソード4)」が上映されて20年後に特別編が上映されました。その時には20年後だからこその評価があるわけです。また、その後「ファントム・メナス(エピソード1)」が上映されたのですが、エピソード4や特別編を観た人にとって、それらと切り離し、エピソード1だけを純粋に語る意味がどれだけあるか…。当のルーカスだって、エピソード1の評価だけを純粋に聞きたいと思ってはいないと思います。
 
例えば『ジョニーは戦場へ行った』はアメリカが戦争に向かう時期に上映され、アメリカでは余り評価されなかったと聞いています。しかし、この作品がもしベトナム戦争末期に上映されていたとしたら、また違った評価になったでしょう。スタンリーキューブリックの『フルメタル・ジャケット』は事前に『プラトーン』が公開されたことで正当な評価がもらえなかったと言う話もあります。或いは、もし仮に黒澤監督の『七人の侍』が2002年に製作・公開されたとして、同じ評価が得られるかどうか?黒澤監督がこだわった技法はあちこちでとり入れられていますが、その先陣を切ったからこそ、彼の作品は評価が高いとも言えると思うのです。
 
監督の意図の有無に関わらず、上映時期さえも評に影響するならば、当然監督の意図はもっと評に影響してくるのも無理からぬことではないでしょうか。
 
映画の評価は、実際のところ本当に様々な要因が複雑に絡まっていると言うのが私の考えです。そして、それをなるだけトータルに評価したいと思うからこそ、いろんな人の評価が気になるのだと思うのです。ですから「監督がどうであれ、良い作品は良い。」と言う評価もありでしょう。しかし一方で評価の切り口が監督というのもありだと思います。また、上映の時期を切り口にした評価もあれば、音楽や俳優、扱ったテーマを切り口にした評価もありだと思います。
 
映画(に限らないと思いますが)は、いろんな要素を含んだままで一つの作品です。それらの要素を切り離す、離さないは評価する人の自由であって良いと思うのです。もちろん、制約をかけた上での評価もありです。それはPOV等で皆さんが行っていることですが。 そうした前提の上で、私はこの場にあるいろんな評価を楽しんでいます。一人だけではどうしても切り口が限られてしまって、二次元的な評価になってしまいますが、たくさんの切り口を目にするに当たって、三次元、四次元的なものに膨らんでいくのがとても楽しいのです。
 
ですから、フランチェスコさんが当初書いておられた、『シンドラーのリスト』がスティーブン・スピルバーグが撮ったのでという理由で評価が低くなってしまう…ということは余り気にしなくても良いのではないでしょうか?寧ろ、フランチェスコさんが「それでもやはりこの作品は良い」と思っていることこそが重要だと思うのです。つまり、フランチェスコさんは、『シンドラーのリスト』に対して御自身の確固とした評価を持っている訳ですから、その評価には説得力が伴ってきますよね。
 
そういう説得力がある評価がたくさん集まるこのサイト、考えてみればとても魅力的です。この場にそんないろんなこだわりのある評価がたくさん集まり、それらが総体となって初めて、作品の評価がより客観的になっていくと言えるのでないか…。私はそんな風に思っているのです。(以上、長文にて失礼し候。)