★4 | 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ越しに柄本を映すのだ。さらに、このカットの中で前進移動も入る。おゝと驚かされたが、これって、とても古い映画のようだと思う。 [review] (ゑぎ) | [投票(7)] |
★5 | モラトリアムでない完全な閉塞を自覚することもできない今とそこで彼らと彼女は水槽の中の海水魚よろしく浮遊してる。足掻く奴を理解もしたくないしコンビニと遊興場があればいい。攪拌する何かが到来する前の停滞と混沌を刹那な艶で描き切った進行形の哀歌。 (けにろん) | [投票(6)] |
★5 | 驚くべき原作解釈/改変力。恐るべき人物造型力。ダンスシーンに対する感度や、「楽器」(ジューズ・ハープ)で幸せを演出しようとする態度はまったく日本映画離れしている。たとえ出来事が一貫して現代日本の若者のリアルに踏みとどまっているように見えようとも、これはまごうことなき世界映画である。 [review] (3819695) | [投票(6)] |
★5 | なんと心優しい青年たちだろう。愛おしいほど真面目で不器用だ。男二人に女一人。アメリカン・ニューシネマやヌーベルバーグの青春? いや、彼らは背伸びし“未熟さ”を露呈し権威に圧倒された。殻に籠ったこの日本の若者たちは互いの“優しさ”に戸惑いすれ違う。 [review] (ぽんしゅう) | [投票(6)] |
★4 | 払暁のペイルオレンジの光に照らされ続ける時だけ、クズ男は明朗で優しい男の一面を誇示し続けられる。白昼では無神経で、粗暴で、人の心を意に介さない人間だというのに。これこそが青春の刹那的な特性そのものであり、そのタイムリミットを迎えればただのガキの甘えとしか断じられない虚像だ。柄本佑 がそんなろくでなし青年を好演。 [review] (水那岐) | [投票(4)] |
★5 | 青春とはなんて、もう気恥ずかしくて言うことがおこがましくなって来てはいるが、それでもこの映画はまさしく現代の青春を見事切り取ることに成功している。 [review] (セント) | [投票(4)] |
★4 | 佐藤泰志の「俺ってこれでいいのだろうか」という問いの先にはいつも強くて自分を確立している女がいる。 [review] (jollyjoker) | [投票(3)] |
★4 | 石橋静河は、飛び抜けた美人というわけではないが、何とも魅力的だ。表情の変化を眺めているだけで幸せになれる。クラブで緩く踊る姿態やカラオケでの「オリヴィアを聴きながら」。 [review] (緑雨) | [投票(1)] |
★4 | 登場人物全員の目が死んでいる青春映画。見ていて奇妙な心地よさを感じました。 (TM(H19.1加入)) | [投票(1)] |
★4 | 柄本佑の遭難に顕著なように悪意は回収され、邪なものは哀れとして解釈しようと試みがなされ、各所で性格造形が受け手の好悪から中立化される。 [review] (disjunctive) | [投票(1)] |
★3 | 『ケイコ 目を澄ませて』('22/日)で三宅 唱監督に興味を持ち観賞。そして落胆。先に観た『ケイコ』の残念な部分の核心だった。☆3.1点。 [review] (死ぬまでシネマ) | [投票] |
★2 | 主人公は名無しの「僕」なのに、三人称の描写が入る。そういうの不満なんだ。 [review] (ペペロンチーノ) | [投票] |
★3 | なぜ脱がないのだ。この映画で脱がないのは風呂屋で脱衣しないに等しい。おっ母さんなら脱いでいたよ。 [review] (寒山拾得) | [投票] |