[コメント] 秘密と嘘(1996/英=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
−まるでこちらのプライヴェートにまで踏み込まれたような激しい感覚。
−その感情は生々しく。
なにも出産することが親子の証になるわけではない。必要なことは別にある。
二人の娘を手に入れた「母」の話。
人間は性交するだけで誕生へと至る。どんな金持ちでも、貧乏でも、世界中どこでも、どんなバカでもこの生物学的な条件に格差はない。誰でも(オトナは)分ることなのに、誰でも認識しているかというとそうでもない。これが20年前のシンシアであった。避妊しないだけで、一人の堂々たる「人間」をこの世に送り出す認識を、だ。世の中でも最も重い部類の責任ではないだろうか。その結果がホーテンスである。
ホーテンスは強い女性として描かれている。勇気もありこの映画の中では理想的な存在であり、ストーリーを進行させる役目も担っている。自分の存在そのものが「秘密」にされていたにもかかわらず、だ。
ホーテンスとシンシアが喫茶店で対話するロングカットのシーン。終盤以前では重要なシーンで見逃せない。ここは2人が「親子」になるシーンなのである。疑問や封印された謎が氷解し、語り合い。そこをじっくり延々と観客に見せつける。物凄く力強いシーンだと思う。親子の繋がりや絆ができる(橋が掛かっていく)過程をまざまざと目の当たりにできるのだ。滅多に見られるものではない。
もちろん出来たばかりだからまだ強固なものではないかもしれない。しかし以後のシーンで徐々に関係が深まってくる。そしてシンシアが非常に生き生きしてきている。見違えるほどの変わりようでとても楽しそうだ。彼女は一人「娘」を手に入れたのだ。
ロクサンヌが「娘」となるパーティのシーンはさすがに見ていて辛く、度々は見られない。重い。修羅場である。真実と本音と痛みと、涙の嵐である。全てが露になる。
だがその嵐の後には「親子」という曙光が待っていた。ホーテンスの勇気がなければ、そしてあのパーティがなかったら永遠にシンシアとロクサンヌは倦怠期の夫婦みたいな関係(観ていて辛かった)のままだったかもしれない。シンシアは愚かであったが、彼女なりに学習し、そして幸せを手に入れたのだと思う。この映画はある意味「出産」である。真実の痛み(陣痛)に耐え、そして精神的な繋がり(娘)が産まれたのだ。呪縛や嘘から開放される為には、時にはあのような体験を共有する必要があるのかもしれない。・・・とは言いつつも自分はあまり経験したい類のものではないが。
陽だまりの庭で「人生って、いいわね」のセリフ。そうだ、ロクサンヌのその笑顔が見たかったんだ・・・。
*この映画は私がロクサンヌと同じ21歳になる直前に観たものだ。なかなかコメントが書けなかった。
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