[コメント] アメリカン・ナイトメア(2000/英=米)
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個人的にハッとさせられたのは、ジョン・カーペンターが『ハロウィン』について「セックス革命に反対したつもりじゃなかったんだけどね」と笑うくだり。もちろん、同シリーズや『13日の金曜日』シリーズを通じて定着した、殺人鬼に真っ先に殺されるのは頭の中身はセックスばかりの浮かれる若者たち、というルールのことである。こんな常識に改めてハッとさせられたというのは、確かその手前くらいに「誰もが気になるセックスのことをデヴィッド・クローネンバーグ監督に聞いてみよう!」みたいなミニ・コーナー(失礼)があったからだ。そこでは、性的解放のメタファーともとれる人間の「変容」と、そうした変容の恐怖を描きつつも本当は魅せられている、あるいは魅せられているからこそその恐怖を描く、クローネンバーグの作家性が本人の口から比較的明快に語られていた。つまり、一方の映画では、解放されたセックスがモンスターとして変化を受け容れられない旧世代を襲っているのに対して、他方の映画では、すでになされた性的解放の地平を生きる若者たちの前にまるで旧道徳の側の怨恨のように「死なない」殺人鬼が現われる、という興味深い図式が浮かんでくるわけだ。もちろん、カーペンター自身が笑ってみせた通り、モンスターやキラーの行動にそのまま製作者の意図を読み込むのはまったくの見当外れだろう。むしろ一見対立してしまうかのような二つの恐怖像が、双方向的な恐怖の醸造されていた当時の社会的情勢をそれぞれに切り取っている、と見たほうが興味深いわけだ。
この点は、本作でも明に暗に「アメリカン・ナイトメア」のメルクマール役を担わされている『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と『悪魔のいけにえ』の二作を考えると、より明瞭である。前者と公民権運動をめぐる情勢との関わりが論じられる前半は、そのままこのドキュメンタリーのハイライトであるが、ここでもはっきりと恐怖をめぐる錯綜がある。ゾンビ狩りをする猟友会の白人男性が、黒人に犬をけしかける現実のそれと重ねられるとき、ゾンビをめぐる恐怖の総体を、権利を伸張しつつある黒人側に対する白人側の怯えと、リンチに訴える白人側に対する黒人側の恐怖のどちらか一方にだけ還元するのは不可能である。軋轢と変動のなかにある社会そのものが恐怖の根底にあるのだ。あるいは、後者はどうだろう。その突出した異様さに目が行くあまり、そこに含まれる社会的文脈について、本作のなかでも十分に検討されていると言えない『悪魔のいけにえ』であるけれど、この映画の殺人鬼一家が資本主義の合理化で廃業に追い込まれた失業者たちであることはやはりここでも指摘されている。時代から見放され、取り残されたようなこのレザーフェイス一家と、そこへ車を走らせてやってくるヒッピー風(一作目)やヤッピー風(二作目)の若者たち、いったいどちらが恐怖に晒されている側なのか。無慈悲な殺人者として登場しながら室内にこもって窓の外を不安そうに覗くレザーフェイスは、圧倒的な恐怖の対象でありながら、実際には、彼自身が最も恐怖を抱える存在なのであり、だからこそ、「アメリカン・ナイトメア」の核心に位置するキャラクターたり得るのだ。
今日のホラーが凶悪なサイコ・キラーや全力疾走怪力のゾンビをどれほど登場させても、これら「アメリカン・ナイトメア」の作家たちを凌ぐインパクトを与えていないように思えるのはなぜだろうか? 血糊が足りない? 狂いっぷりが足りない? おぞましさが足りない? 逆にチープさが足りない? たぶんどれも違うだろう。あるいは、往年の傑作を懐かしむ古典趣味がホラー・ファンのあいだに根強いからというわけでもないだろう(私の知る限り、ホラー・ファンというのは、必要以上に貪欲で、そんなに節操のある人たちじゃない)。「アメリカン・ナイトメア」の作品群が今なお異彩を放っているのは、誰が誰を脅かしているのか、誰が誰を恐れているのか、恐怖に怯える者もまた恐怖を与えている側なのではないのか、残虐な暴力を振るう者こそ本当は恐怖に囚われているのではないか、そんな恐怖をめぐる錯綜がそこに刻印されているからなのだ。もちろん、その錯綜とは、女性解放、黒人解放、ベトナム戦争といった場で具体的に問われていたものである。勉強になった。
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