[コメント] ロックンロールミシン(2002/日)
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本作に関してチラシや情報誌などを見ると、本作での俳優の並びの一番初めには、池内博之がくるし、公式HPにある舞台挨拶の様子を見る限りでも、池内が主人公のように扱われている。監督行定勲は、池内演じる凌一のほうに重点を置いていたのかもしれない。無理をしないでやっていける小共同体を支えていくためであったはずが、いつの間にか無理をし始めていたことに気づいた彼の葛藤は、クリエイターとしての行定の悩みに通じるものがあった。行定は原作のロックンロールミシンの後説としてそのような趣旨の文章を寄せている。なるほど確かに池内が小集団の要であり、彼の意識一つで共同体は創られ、そして崩壊を迎えた。
しかし、私は本作をリクエストするにあたり、敢えて加瀬亮を一番前にもってきた。漠然とした悩みを抱えた彼が客観的に小共同体の興亡を目の当たりにした、というのが話の骨子であると感じたからである。会社を辞めて入り浸った小集団のなかで彼は一貫して傍観者であり続ける。それは彼にとってまったくの専門外であったことももちろん関係あるのだろうが、それ以上に始めから彼はどこか冷めているところがあった。だから、共同体の崩壊時、彼はその様子を遠巻きに眺めているだけだった。そうした一歩踏み込めない、いや踏み込まない情景の描写が本作のミソだったのだと思う。
本作でもう一つ気になるのは女性の名前、行定のヒット作『GO』のヒロインと同じ椿という名前がそこにあてられていることである。ひょっとしたら行定が敢えて同じ名前にしたのかと思ったら、ちらと見た限りではそれはもともと原作にもつけられている名前であった。ただ原作では椿というのは名字で、彼女の名前は椿めぐみという。それが彼女の名字であることは確か映画の中では紹介されていなかったと思う(見逃していただけかもしれないが)、原作は後で見たので椿というのは下の名前だと思っていた。行定のなかで椿という名前の連続性は頭の片隅にあったような気がする。ありきたりな社会の流れに反発してみせる女性椿、それでいてつっぱりきれない自分をどこかで感じている。今までこんな人に何度か出会ってきた。ひょっとすると自分の中にそういう気持ちがあって、そういった人たちのなかに自己を見出していたのかもしれない、今までの人生、こんなことの繰り返しであった。
ありふれた才能しかない、ありふれた集団の、ありふれた出会い(再会)と別れ。「ストロボ・ラッシュ」の名前の決め方や、どんな集団でもノスタルジック感いっぱい見せてしまうあの部屋に差す柔らかな光などは、スノッブくさくて辟易していたが、全体としては役者陣の落ち着いた演技(いかにも会社の上司風な津田寛治と松重豊は面白かった)やボタンの縫いつけなど実際に洋服を造る過程などは観ていて楽しかった。最後彼らは嫌っていたはずの何も起こらない日常に収斂していく、「……まあ、しょうがないか。」とため息の一つでもついてみる。「まあ」という言葉が出てくる前の「……」の部分をつかれたような感じがした。物足りないといえば物足りないのだが、「ま、いいか」という気にはなった。
*登リクするにあたり加瀬のほうを最初に持ってきたのは、主観的ではなく客観的な判断のつもりなのですが、他の媒体同様池内を一番始めにもってくるのが筋であると考える方がいらしたら、そこまでこだわりがあるわけでもないので、本登録の前に(されるか微妙だが)配置を変えていただいて一向に構いません。データベースとしての客観性を保つのが一番大事であると考えます。
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