[コメント] さびしんぼう(1985/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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もう自分の好きなシーンはラストに至る流れ、私の片方だけみていてください、と言って別れた後の雨の階段で待っている道化の富田靖子。翌日の写真の種明かしとか大林監督は随分サービスがいい。エピローグ、尾美としのりが坊主になってセーラー服の富田靖子が引くピアノ上の上のオルゴール、とかいかにも過ぎて興醒めだが、最後の下手な歌はすごくいい。もうひとつは何もない冬だった、という独白の流れる連絡フェリーのシーン。小さな港の夕暮れ。翌日のフエリー、尾美が待ち伏せしていると昨日は覗き見していたのを許してくれたのに、まったく知らん顔で通り過ぎる富田靖子。この喪失感が胸に迫る。
今更ながらに見返して、興醒めのドタバタはまったく忘れていたし、思春期の少年が抱く母親像と憧れの女性象をよく映像化したと思った。原作は「転校生」と同じ人だし、小林聡美も出して監督は遊んでいる。末っ子だった私は母親が42歳の時の子供で、今でなら高齢出産で済ませられるが70年前では、恥かきっ子だね。団塊最後の年だ。そして母は子供を6人も産んで体力を使い果たし寝たきりになっていた。だから私は母親に十分に世話されなかったし、こちらから甘えることはできなかった。そのことをよく覚えている。
だから思春期になって募る恋心は、相手に拒まれなければならない、という強迫観念に囚われ屈折したものとなった。自分は相手から好かれるわけはない、その一方で募る慕情は抑えがたい。そうしてそういう自分がたまらなく惨めで嫌だった。まあよくある自意識の葛藤だがそこからずっと抜け出せない。結婚した相手は喘息持ちのアレルギーがある気立ての良い女性だった。私はおそらくそこに母の面影を見ている。以来40年離婚せずここまできた。この妻は藤田弓子であり、白塗りの富田靖子なのだ。ではセーラー服の富田靖子はどこにいるのだ?それはこのさびしんぼうの中にいる。私の思春期心性がこの映画を見て今日も胸をうずかせるのだ。2020.4.15
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