[コメント] ブラウン・バニー(2003/米=日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
◆いつものように仕事帰り、レンタル店をぶらついていたワタシは、ミニシアター系のコーナーでふと足が止まった。小さく、疾走するバイクの写真が使われているパッケージが目に付いたからだ。バイクにまつわるPOVを持つワタシとしては、とりあえずそれがフィーチャーされた映画ならばジャンルを問わず目を通さねばなるまい。ジャケ買いならぬパケ借り。主演・監督はと、ああ、あの『バッファロー’66』のヴィンセント・ギャロね。ふ〜ん、でも雰囲気的にバイクはストーリーにそれほど絡んでこないんだろうなきっと、などと思いつつ。
◆映画は娯楽だ、と定義付ける向きにはまったくお勧めできないであろう映画だった(別にその定義付けを皮肉ったり揶揄するつもりは毛頭ないので念のため)。しかし襲い来る睡魔と闘いつつ、果てなくたぐり続ける道路を観ているうちに、なぜだか自分を構成している何かの一部がシンクロしはじめ、一時たりとも目が離せなくなってしまっていた。
◆愛する誰かを失う喪失感は誰しも必ず経験することだろう。今はなくともいずれ必ず訪れる。フロントガラス越しの、無意味に流れる風景は、そんなバドの心象を端的に示す。喪失感とは周りのすべての物事の意味を失わせるものだ。花の名を持つ女達に、愛する者の幻想を重ね合わせては、絶対に埋められぬ喪失感にまたもや絶望する。物議を醸した例のポルノ表現も、ワタシは支持したい。男の端くれとして申し上げるが、かつて愛した女達の記憶をたぐってみれば、心が通いあった日々とともに肉体のぬくもりもまた必ず対となって思い出されるはずだ。違いますか?違ってたらゴメンなさい。ギャロの聖母幻想を勘案してみれば、それが能動としてのセックスではなく、受動するフェラチオだったのも納得がいく話ではないか。
◆映画を観ながら、どうしてバドは二輪のレーサーという設定なんだろうとずっと考えていた。別に他の何か地方巡業する職業でもよかったのではないか、と。理由は簡単で、ギャロ本人がかつて二輪レーサーだったからとのこと。でもそれだけだろうか?やはりここはバイク乗りとして一言言わねばなるまい。DVDコメンタリーで発覚したが、冒頭のレースシーンもスタンドインを使わずギャロ本人。美しいペイントもまた本人によるものだったそう。であればこそギャロは本質的なところでバイクはどういうものかを理解し、この映画で用いたはずだ。むき出しの体で恐るべき速度で疾走するマシンは、死に近づくそれとしてこの映画では機能しているのだと思う。逆説的に言えば一所懸命生きなければ死んでしまう乗り物であり、職業なのだ。生きることそのものに意味を見いだせる唯一の装置があのゴールドのマシンだったのだと勝手に思っていたい。ごく短いエンドクレジットにちゃんとRS250の諸元のせてきたのには笑えた。あはは、ここにもバイクバカいたって。
◆皆さんはDVDコメンタリーって観ますか?どうもアレを観ると映画をはさんでぐるりと作り手側に持って行かれるようで客観性を保てなくなってくる気がします。これも功罪ですかね。
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