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[コメント] ゾンビ(1978/米=伊)

神の啓示。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







オープニングで、赤い壁の部屋で夢にうなされていたヒロインのフランは、男に肩をつかまれ目が覚める。その男はドアを開けて外へ出てゆき、彼女もまた部屋の外に出てゆく。一見どうでもいいような場面だが、この場面を要約して文章にしてみると、「赤く閉じた空間で悪夢を見ていた人間が、目を覚まして新しい世界へと進む」となる。すなわちこれが、この映画の全体像そのものだったのだ。

次に男に肩をつかまれる場面だが、この場面には妙に圧迫感が感じられる。この場面を演出的に捉えると「何か大きな存在が彼女を揺り起こした」ように見えるのだ。そして男は、「扉」を開けて彼女を次のステージへと導いている。そこで私はここに「神の啓示」があると仮定し、彼女こそ神の加護に選ばれた存在であると想定してみた。するとそのことは、もう一人の主人公であるピーターにもピタリと当てはまるのであった。

ピーターは冒頭で、同じSWAT隊員のウーリーを射殺する。これは、彼が再び「仲間を撃つ」という運命を暗示していた。次にピーターは、物干し場にある白い布の向こうから現れる。白い布はキリスト教において洗礼を受けた者が持つものであり、彼と神との繋がりを窺わせる演出だ。そしてピーターがタバコを吸うと、突然後ろの「扉」が開き、片足の黒人神父が硝煙の中から現れる。この場面はまるで「もやのかかったピーターの心に、神の使いが訪れた」と見て取れるのだ。そして神父は地下室にある死体の始末を託して退場する。これはこの先の世界が「神の不在」であることを意味していた。一方、地下室では「扉」が破られ、そこからゾンビが溢れ出てくるのだが、この「扉」はピーターにとっては「地獄の門」であり、彼の苦難の始まりでもあったのだ。地下室でピーターが死体を処分していると、突然頭上の「扉」が開いて中から州兵が顔を出す場面がある。これは終盤において重要な伏線になっているのだが、それは後ほど述べることにしよう。

そしてピーターはヘリに合流するのだが、そこで彼は同じく神に選ばれたフランに出会う。残りのメンバーであるスティーブンとロジャーは神に選ばれなかった訳だが、それは彼らの登場シーンに暗示されていた。スティーブンは、テレビ局にフランを迎えに来るが、入り口の「扉」の前で警備員に止められる。そして彼はゾンビになった後、再びフランを迎えに来て、「扉」の前でピーターに撃たれるのだ。一方ロジャーは、ビルの屋上で新人SWAT隊員と話をするのだが、制服姿の彼らはよく似ており、まるで分身のように見える。そしてその新人は頭を撃たれてしまうのだが、これもゾンビという言わば分身になったロジャーの死を予兆していた。

そして彼ら4人は、欲望の象徴であるショッピングセンターに辿り着く。ピーターは屋上から建物に侵入し、奥の部屋の「扉」を開ける。そこは窓もない閉じた空間であり、それは彼らにとって、閉じた世界における新しい生活の始まりであった。やがて彼らはショッピングセンターの「扉」を閉ざしてゾンビを締め出し、そこに立てこもることで堕落する。映画はそれまで「扉が開くことで、新しいステージが始まる」という演出がなされてきたが、ここでは主人公たちが自ら「扉」を閉ざしたことで、彼らの停滞が始まるのだ。すでに崩壊した文明にしがみつき、偽りの生活を送ろうとする彼らは、生前の記憶に縛られたゾンビも同然であり、そんな死んだような生活の中で、フランだけはいち早く偽りの自分に気づき、ヘリの操縦を習うことで一歩前に踏み出すのだった。

次にピーターの目覚めの時がやってきた。暴走族によって「扉」がこじ開けられ、再び混沌の世界に引き戻されたのだ。暴走族との戦いは、序盤のアパートでの銃撃戦との対比になっている。人間同士の撃ち合いから始まり、ゾンビがまん延してくる展開、そして旅立つまでの一連の流れをなぞっているのだ。そして戦いが終り、ピーターが自殺しようとする場面になる。ここで疑問なのは、なぜピーターは自殺を思い留まったのか、という点である。ここで序盤の地下室のシーンが重要になってくる。地下室という出口のない閉じた場所に、突如頭上の「扉」が開く場面である。言い換えればこれは「逃げ場のない地獄のような状況に、頭上から道が示された」という場面なのだ。そしてこれと同じ状況がラストで再現されている。出口のない閉じた部屋で、頭に銃を構えたピーターの目の前に、突如道が示されたのだ。そこに現れたのは白いトレーナーを着たゾンビ。白といえば、ピーターが登場したのも白い布の向こうであり、キリストの亡骸を包んだのも白い布である。私はここに「神の啓示」があると確信した。この白いトレーナーのゾンビこそ神の使いであり、ピーターを導くために現れたのだ。そしてピーターはその神の使いの頭を撃ち抜くのだが(笑)、その撃たれる様は、どこか十字架を連想させるように両手を広げていたのである。そしてピーターは、「神の啓示」に従って生きる気力を取り戻し、フランと共に旅立つのであった。

こうして物語は「血塗られた欲望の世界に閉じこもっていた人間が、目を覚まして新しい世界を目指す」というオープニングの場面に収束される。つまりこの映画は、死者が蘇る世界の中で、苦難を乗り越えた人々の心に、死んでいた人間性が復活するまでの物語であり、それは神(もしくは人間の中にある神性)の復活でもあったのだ。キリスト教には「最後の審判」という教えがあり、これは「復活したイエス・キリストが、全ての死者を復活させ、善人は天国に導き祝福を与え、悪人は地獄に送り真の死を与える」というものである。これを念頭に映画を振り返ると、この映画が「最後の審判」を独自の解釈で描いたものであることが推測される。するとラストシーンで、朝日を目指して飛び立ってゆくヘリと、地上に残されたゾンビとの対比は、まさに「最後の審判」を象徴したものであり、天国と地獄に分けられた人間たちの縮図を見るようである。少ない燃料でどこまで飛べるかはもはや問題ではなく、彼らが光に向かって飛ぼうとする意志を持ったことが重要であり、それにより彼らは神に祝福されたと見るべきなのだ。彼らが飛び去った後に、画面は石膏の鳩を映し出す。石の鳩に翼はあっても飛ぶことはできない。本当の鳩、本当の人間だけが高みへと飛び立つことができるのだ。

最後に、この映画における神とは、ロメロ監督自身とも言える。ロメロ監督が死者を復活させることで、そこにいる人々の人間性をあぶり出し、映画のラストで監督の審判を下す、というのが一連のゾンビ映画の特徴と言えよう。どの映画の主人公も、立てこもる場所から旅立つことで生き残っており、それは「こだわりを捨て、前進することで未来は切り開かれる」という、我々人類に対するメッセージでもあるのだ。そんなロメロ監督のシリーズの中でも、ずば抜けて面白いのが本編であり、私にとってはこの映画こそが神である。例え「最後の審判」が下ろうとも、この映画に対するこだわりだけは捨てられそうにない。(2007.7.6)

(評価:★5)

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