[コメント] 伽耶子のために(1984/日)
シュールなフェティシズムに寺山が想起されるが、在日一世の苦難を扱うにもかかわらず津軽の閉鎖性に比べてこの北海道には未来へ向けた開放感がある。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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波打際の白骨死体、骨董品から出てくる写真、拾われる麦藁帽子、交わされる没落の会話(「戦争があったお蔭でぼくたちは出会った」)そして排水管と、寺山(フェリーニ)好みの連発であるが、模倣というよりもこちらのほうが優れていると思わされる。恨(ハン)の訴えは明らかであるにしても、マージナルを扱って旧弊にあえて埋もれる寺山と比べれば、間違いが正される可能性が予感されており、肯定的な印象が残る。
主演のふたりは余りにも素人だが、これが抽象的な空気を演出してブレッソンを想起させるのだった。監督の意図がどうか判らないが、ラストも絶望という感じがしない。伽耶子はいつか再び現れるだろう。『死の棘』がイマイチなのは、俳優が上手いからではないのだろうか。
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