[コメント] ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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自らが行使する力に思わず目を背けながらも、それでもあえて見ようとするヒロインの姿に、この監督のメッセージが集約されている。「傲慢でなかれ」ではなく「傲慢から目を反らすなかれ」。「子供を殺す時には、彼女にも自分と同じ思いを味あわせて」。彼女は己の中にある「制裁」という傲慢な欲求を、車の窓の地獄を通して確認しているに他ならない。
そして人々の傲慢さをできるだけグロテスクに突きつけることで、観客の中にある傲慢をも喚起させようとしているのが分かる。ある意味とても直截的な方法。あえてトリアー氏が必死になってそれをやっていることに敬意を表しつつも、村人たちの本当の怖さは、傲慢さを忘れる事、麻痺して自らがやってることを認識できないことであったりする。分かるようにはなってるけど、もっともっとそこを強調しても良いかと思う。
「村」や「世界」といった共同体を名目とした正義、あるいは「他人のため」を名目にした許しでもいい。しかし結局は、己の「我」という重い枷から逃れることはできないのだから、人間は己のためにしか行動できない生物である、ということ。それが「傲慢」と呼ばれるものであれば、それを捨て去ることは(広義な意味で)人間としての「死」を意味する。その限界を感じて、彼女は人々の「罪」という重い鎖を引き摺って歩く「殉教者」であることをやめ、あえて「権力者」の道を選んだ気がする。人が人の罪を許すと思うこと自体も、それは一つの傲慢なのではないか、ということを父親は言いたかったのだと思う。
しかし、そもそも人間自らが人間性を「傲慢」の一言でバッサリと切ってしまうこと自体が、もう既に傲慢なことで。もちろんトリアー氏自身わかってあえてやってることだとは思うけど。でも少し違和感が。「何て滑稽なんだろう」とか「何て哀しい生物なんだろう」という視線を交えず、ただ「何て傲慢な生物なんだろう」のみ、というのが、無神論者の自分としてはイマイチピンとこない。人間の外にある視点でなければ、そうバッサリと断罪なんてできないと思うのだけど・・・。
この映画を見て覚える不快感は、人間がまるで動物のように扱われ観察される不快感。しかし、裏を返せば「動物とは違う」という驕りがあってこそ、初めて「ヒト」は「人」たり得るのである。その驕りを断罪されることに人が必死で噛みつこうとするのは、防御本能なのではないかと思う。動物的な本能とはまた違う、人独自の本能。そしてこの映画で最も断罪されているのは、紛れもなく「観察者」。本来観察対象であるべきものが、あえて一歩高いところから同類を観察するという構図のイヤらしさ。これに比べたら村人たちはまだ「子供」なのである(この「子供」とみなすこと自体がさらに傲慢)。まるで監督自身が自らを断罪するかの如く。
ただ、どうしても違和感を感じてしまうのが、ニコール・キッドマンというキャスティング。演技への気負いも手伝って、どう見ても相当我の強い人にしか見えない。それでも、映画自体は意図が非常に明確で、それがかなり成功していると思うのでプラス1。もう自分でウンザリするくらいここで「傲慢」という言葉を重ねたし、その重ねさせられた数の多さが、この映画の達成のバロメーターなのかもしれないから。
(2004/11/26)
追記:同じようなテーマだったら、個人的には『カスパーハウザーの謎』の方が、押し付けがましくなくひたすら静謐な分だけ心にズシっときました。
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