[コメント] デイ・アフター・トゥモロー(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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派手さ優先、考証軽視、リアリズム無視、物語浅薄という点は変わらなくとも、スペクタクルへの異常な執着が、エメリッヒ映画を、数多のたわいないハリウッド超大作から分け隔てている。そのカタストロフィに知性や理念はないかもしれないが、絵が強く、臨場感がある。これはひとえにエメリッヒが終末の景色を真剣に想像しているからであり、毎度のことながら前半40分だけは悶絶するほど面白い。
で、後半は話が急降下で失墜して行くわけだが、驚いたことに今回はちょっと違っていた。有り体に言って、この映画は重い。『インデペンデンス・デイ』のようにカッ飛ばないし、『GODZILLA』のように轟沈したりもせず、ただ重い。確かに駄目なところはいくつもあり、出来はよろしくないかもしれないが、いつになく悲愴感が漂う真面目な映画だった。ドラマの展開はお定まりだが、人物描写が等閑だったとは思えない。
たとえば『八甲田山』のごとく天に見捨てられた数多の人々、たとえば重病の少年の描写などは、この手の映画なら黙殺するのが常であり、一概に偽善やらお涙頂戴やらで片付けて欲しくない。これらは、こういった現象が実際に起きたとしたら避けられないであろう側面にエメリッヒが直面した証拠なのだろうと思う。
その上で、たとえばラプソン教授(イアン・ホルム)の顛末に見えたクラシカルな科学者像、たとえば主人公の恋敵になると見えた少年が主人公の勇気に打たれて理解者となるエピソード、たとえば政治に呑まれ盲となっていた副大統領が現場の人間に触れ、大統領の死を経て、自らが大統領となった展開の意外性。彼をして『インデペンデンス・デイ』とは相反するようなメッセージを語らせたさらなる意外性。どれも幼稚な域を出ていないと言ってしまえばそれまでだが、それでも変節した点を黙殺し、あいもかわらずアメリカ中心主義だの何だので片付け、映像が何より雄弁に物語るテーマの重さに不感症となるのは、それこそ平和ボケならぬ、温暖化ボケなんじゃないかと、自分は思う。
だって、マジでこういうこと起きるかもしれないじゃん! キャッチコピーじゃないが、そんときあんた方はどうすんのよ! ……今、そういうこと想像して映画見るの流行んないのかなあ。
今もってそういうこと想像しながら見る俺としては、今回エメリッヒが大人びたことを評価する一方で、実は落胆もした。今回のエメリッヒは災害の残酷さに真摯に向き合った一方で、それに立ち向かっていくエネルギーを忘れてしまっていた。早い話が、今回人類は反撃しなかった。今回彼らがしたことと言えば、せいぜい避難してみたり、災難が過ぎ去るのをじっと待ってみたり、彼女のためにペニシリン取りに行ってワン公にケツ噛まれてみたり、遭難した息子を訪ねてみたりの父親に至っては結局見つけただけで何するでもなく……。
確かに、現実的に人間ができることと言えばその程度かも知れない。しかし映画は現実ではなく、我々の理想であり、願望であり、心である。現実でなくていいのだ。否、むしろ現実に屈するようなケツの穴の小さいことでどうする。虚構に現実を覆す夢を爆発させる気概があってこそ、現実に立ち向かっていけるのではないか? 活火山にミサイル打ち込んでマグマで氷を溶かすとか、みんなで穴掘ってマントルの近くまで行って暖まるとか、いっそそのまま地底人になっちゃうとか、そのぐらいデタラメなパワーが欲しかった。
人類が行動しきった『妖星ゴラス』はやはり偉大な映画だった。
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