[コメント] 泥の河(1981/日)
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やはり素晴らしいのはモノクロ撮影だろう。安藤庄平の傑作(彼は監督にもキャメラを覗かせないらしい)で、宿船の構図やお祭りにおける光と影など、50〜60年代の邦画のレベルの高さを再現しており、80年代でも撮ろうと思えばこんなに美しいモノクロが撮れたのだという証明になっている(『麻雀放浪記』も安藤撮影)。デジタル時代にこの質感はもう再現不可能だろう。
映画はいつの時代を撮ろうが自由なのは当たり前だが、この秀逸なモノクロ撮影がどうしても戦後まもなくの貧乏映画との比較を迫ってくるものがある(蓮實重彥が公開当時この撮影について種々論評していたものだった)。そんななか、絶妙なのが大陸帰りの田村高廣だろう。『二十四の瞳』の磯吉君から『兵隊やくざ』シリーズ(カラーですが)に至る彼のフィルモグラフィーを背景に想起せざるを得ず、この配役自体に制作者の狙いがあるだろうと感じる(当時もう五十代でとても四十歳には見えないが構わない)。
田村が弟の桜井稔の唄う「戦友」(この厭戦的な軍歌は太平洋戦争中は公式には禁歌だった)に反応する件が美しい。バラックのうどん屋から朝鮮特需を揶揄する彼の科白は『伽耶子のために』へと繋がっており、この視点は50年代の日本映画に全く欠落していたもので、オーシマ以降にもう一度あの時代を振り返る意義を感じる。
さて、封切時に二番館で観て純粋な学生はラストで感動したのだったが、今観返すと残念ながらそうでもなかった。どうも端々の演出に疑問が湧いてしまうところがある。例えば蟹に火をつけて遊ぶ桜井君に過剰な意味づけをするのはどうなんだろうと疑問に思う。あの位の年齢ではトカゲの尻尾切って遊ぶぐらいの小動物虐待は当たり前なのではないのか。確かに山の手の坊ちゃん嬢ちゃんはこんなことしないだろうが、川沿いのうどん屋に住む朝原靖貴君にとってそれは拒否すべきことだっただろうか。
それと、加賀まりこの売春現場の発見が別れに繋がることになるのだけど、小学三年生の朝原君はセックスとか売春を知っているのだろうか、というのも多少引っかかる(あの加賀の目線で全てを察知した、ということなのか)。加賀についてはひどい母親で、通常なら設けるだろう彼女の境遇に係る説明を排しているのはメロドラマの悪役造形に近く、リアルのようでもあり作為的な突き放しのようでもあり、感想が定まらない。
本作で求心力のあるのは加賀一家が絡む筋ばかりで、脇筋は冴えていない。芦屋雁之助の事故死とか病床の八木昌子とか(藤田弓子の謝罪とか)、「お前が成人するまで生きているか判らんぞ」と告げる田村の突然の蒸発とか、死別が少年の周りを覆い続けるのだが、これが収束に向けて効いているとは思われない。加賀一家はどこかで生き続けるだろうけどもう二度と会うことができない、というラストだろう。死別とはまた違う話ではないのか。
とまあ色んなことを考えてしまうのだけど、些細なことである。柴田真生子の銀子と弟の切なさへの共感が本作の全てだ。それが田村の想いでもあるだろう。彼女が貰ったワンピースを返す件、あれは遠慮でもあるだろうけど、銀子はそれ着て「きれい」と云われるのが厭なんだろう、と思って感じ入った。母親が「きれい」を商売にする人なのだから。
橋の欄干が新し過ぎるのは目障りで、制作者には痛恨だっただろう。撮影は名古屋の中川運河らしく、付近に住んだことがあるのだがもう様子は随分と違ってしまっている。船上生活を扱った日本映画は他にもあるが、何でしたっけ、忘れてしまった(河口に屯していたような)。姉が弟の足を踏んづけ続けるギャグや、祭りで小銭を穴空いたポケットから落としてしまう件など、サイレント仕様で感じがいい。舟を追いかけ続けるラストもまた叙情サイレントの最良のタッチを想起させる。やさしい藤田弓子のお母さんも心に残る。
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