[コメント] フィールド・オブ・ドリームス(1989/米)
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大人のためのファンタジー。無念の涙を呑み、果たせなかった過去の野球人達の夢を叶えるためにケヴィン=コスナーが活躍する。
動機の訳が今ひとつ不明確だが、これはあくまでファンタジーであり、たまたま彼が霊的な場に立った幸運な(不幸な?)人物だった。と考えるならば良し。映画には往々にして“不幸にして死ぬ”パターンが多いから、時折、“幸運にも当たりを引き当てた”ような事があっても良いか。とも思うし。
正直コスナーは嫌いな映画俳優の一人だが(理由は単純で、ナルシストぶりが鼻につくから)、しかし、ここでは確かに画面に最も多く登場する人物でありつつも、完全に画面内の主役からは一歩引いている。それが上手さとなっているし、彼にもこんな時代があったことを、この映画を観て思い出す。
私も野球好き(あくまで観戦だが)な方だが、アメリカ人の野球好きというのは堂が入っていて、その熱狂ぶりは日本の野球ファンの多くは太刀打ちが出来ない。それは何故かと考えると、ヒーローがそこにはいるから。大リーガーとは、ある意味カリスマ性そのものなんだと言うことを実感する。日本とアメリカの野球選手の質の差はそこにあるんじゃないかな?
日本ではむしろヒーローというのは、球団そのものへと向けられ、個人は一般レヴェルに引き落とされる(芸能人以上のマスコミ攻勢に遭い、茶の間レヴェルに引き落とされる彼らを見てると、チームの一員として恥ずかしくないのか。と思ってしまう自分が確かにいて、何でチームのことを考えてるんだ?俺は。と思う瞬間があった)。
この映画ではシューレス・ジョーという選手についての言及が非常に大きいが(私は知らないのだが)、彼の行ったことは、チームに対して、ではなく、野球そのものに対して恥ずべき事をした。と言う風に冒頭で言われていた気がする。そしてチームではなく、彼自身の技量についてもかなり語られていた。アメリカという国にとっては、選手の上にあるのはチームよりむしろ、野球そのものなんだろうな。
結果、この映画はチームではなく、人にスポットが強く当てられる。シューレス・ジョーを始めとし、野球に思いを残して亡くなった多くの野球人達、そしてマイナー・リーグの選手だったというレイの父親まで。
ところで、ここでコスナー扮するレイは確かに一歩引いている。何よりも彼の愛すべき妻アニーに。この映画で、本当に苦労を越え、喜びを得たのは、実は彼自身より、アニーの方ではなかっただろうか?少なくとも、私にはそう思えてならない。男の身勝手な夢を支え続け、そして苦労を表に出さぬよう務めつつ、最後は一緒に喜びに浸る。とても邦画的な良さだと思うのだが…
<関係ないけど>
あの過去の時代にレイが行ったとき、『ゴッド・ファーザー』が上映されているのははっきり分かるけど、あの直後のシーンはやはり『エクソシスト』なのだろうか?
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