[コメント] ナージャの村(1997/日=ベラルーシ)
映画では一度も「チェルノブイリ」という言葉は出てこない。ベラルーシ共和国で立ち退きとなった汚染された土地、で説明は充分という事だろう。
淡々と素朴に暮らす人々のさまは、視ているものの心を和ませる。「汚染」という事を除けば、そこは豊かな土地にさえ思われる。
しかし村に残った6世帯は、共和国政府が危険だから住んではいけないと指定したのを無視して、勝手に暮らしているとも言える。嘗て300世帯あった村から他の人々が指示に従って去っていったのに、6世帯の人々はそれに背いたのである。中には他のひとの家や畑を利用している者もいる。
ナージャの親は子供の教育が心配になり、とうとう町への引っ越しを決意する。しかしそれは他の家ではとっくにしていた事だろう。そして父親は村に残り、そこでの農作業を続ける。ナージャの母親は引っ越すまでに悩む。「年金だけでは町で暮らせないわ。町で狭い家に住まわされるのなんてご免よ。…」しかし他の家ではそうしていた訳で…。
この映画の問題は、このドキュメンタリーが何を訴えたいのかが不明確なところだ。先祖代々住んでいた土地を連邦の原子力政策の為に追われる事になった悲しさ、なのか、事故に対する補償の少なさ、なのか、それともただ単に素朴な農耕生活の素晴らしさを訴えたいのか…。
彼らが直面している問題は何なのか、悲劇は何なのか、どうすればいいのか、すべき事があるのに誰かがしていないのか、が伝わってこない。詳細の描写は不要とばかりに感性に働きかけようとする。しかしそれでは寧ろ映画の意味が無いのではないか? 仕方ないだろ、連邦の政策の結果なんだから指示に従えよ、と私は言いたいのではないのだが、この映画(制作者)が何を訴えたいのかが解らないので、何だか釈然としないのだ。
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