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[コメント] ガルシアの首(1974/米)

究極のバディ・ロード・ムーヴィ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







前半がウォーレン・オーツイセラ・ベガのバディ・ロード・ムーヴィであることは云うまでもないが、ベガ退場後の後半はオーツと「ガルシアの首」とのバディ・ロード・ムーヴィになっている。ベガを殺されガルシアの首さえも手に入れることができなかったオーツは、なぜせっかく助かった自らの命を危険に晒してまで首を奪うことにしたのか。物語に即して云えば「カネのため」あるいは「『ガルシアの首を持ってこい(Bring me the head of Alfredo Garcia)』と云った連中に復讐するため」であろうが、「映画原理」とでも呼ぶべきものに即して云えば、それは「バディ・ロード・ムーヴィを続行するため」に他ならない。

ベガというバディ(相棒)を失ったオーツがバディ・ロード・ムーヴィを続けるためには、当然ながら新たなバディを必要とする。それがガルシアの首だ。人はここでふたつの疑問を抱くかもしれない。ひとつめは「既に死んだ人間の首が『バディ』になりえるのか」という疑問だが、答えは「なりえる」。オーツが首を単なる物品として扱っていないことは首に対して幾度も話しかけていることから明らかであるし、何より物語やアクションは首の存在を中心にして展開されるからだ。せいぜいバイカー(クリス・クリストファーソンドニー・フリッツ)を呼び寄せることしかできなかったベガよりも、幾つもの殺戮の引き金となるガルシアの首のほうがむしろ映画におけるバディとしてはふさわしい(そもそも「バディ・ムーヴィ」とは本来的には「一対の男たちの冒険を描いた映画」のことを指すのだから、その意味でもガルシアの首は女性のベガよりもバディとして適当である)。

ふたつめの疑問は「そもそも、どうしてオーツは首を『バディ』に仕立て上げるということまでしてバディ・ロード・ムーヴィを続けようとするのか」というものだ。これに対しては「オーツが『バディ・ロード・ムーヴィ』の主人公だから」としか答えようがない。それが「映画原理」というものなのだ。ただ「バディ・ロード・ムーヴィを続行する」という一事のために、死人の首がバディとしてでっち上げられ、殺戮が重ねられる。私が本作を「究極のバディ・ロード・ムーヴィ」と呼んだのはそのような意味においてである。ここに存在しているのは現実世界に通用する「もっともらしさ」ではなく、粛々とバディ・ロード・ムーヴィを遂行していくだけの「映画原理」なのだ。

そしてラスト。ガルシアの子を産んだ女ジャニン・マルドナードに対する「You take care of the boy. I’ll take care of the father」というオーツの台詞は、「俺はこれからガルシアの首を埋葬しに行く」ということを意味しているのだろう。バディであるところの首の埋葬、これは即ちバディ・ロード・ムーヴィを終結させんとするオーツの意思に他ならない。しかしオーツはバディを葬ることができないまま射殺され、映画は終わる。つまり、この映画は最後の最後まで「バディ・ロード・ムーヴィであること」を貫いているのだ。あるいは、たとえばオーツの射殺がマルドナードに首を託した後であれば、バディ・ロード・ムーヴィの終結(「首=バディ」の喪失/放棄)と映画の終了がイコールで結ばれ、映画の終わり方としてはより整合性の取れたものになっていたかもしれない。だが、首という「バディ」を伴ったまま、埋葬に行くという新たな「ロード」に出んとするところで幕が閉じられるこの映画は、やはり究極のバディ・ロード・ムーヴィの名にふさわしいと云えるだろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)ナム太郎[*] 甘崎庵[*] 赤い戦車[*] uyo[*] ジョー・チップ ゑぎ

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