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[コメント] GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995/日)

一言で言うと押井守の世界観は好みではない。でも、一言どころか多言を費やして文句を書きたくなる作品ではある。以下、多言にて失礼します(2.0の感想付き)。
ロープブレーク

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







公開当時に見て、『ビューティフル・ドリーマー』と同じだなあ、と思ったことを思い出す。躍動するキャラクター、にもかかわらず全編を貫く閉塞感。原作の世界観の完全な否定。『2.0』公開直前ですが、本作のレビューを書いていなかったことに気がついちゃったので取り急ぎ。

思えば、『うる星やつら』も『攻殻機動隊』も原作は日本的な意匠に彩られた舞台に展開される母性的包容力と芳醇さに溢れた作品だった。これが押井作品になると、西欧近代の思想的文脈に忠実な「神の不在」的理不尽さと茫漠さの中で展開される出口の無い息苦しさに覆われた作品へと換骨奪胎されてしまう。

この世界像の反転により、押井作品は欧米(特にプロテスタント色の強い米国)で共感を持って受け入れられたのだが、はたしてそれは後の商業的成功以外に作品として意味があったのだろうかという疑問がぬぐえない。

日米関係というフィルターを通してのみ成立する原作とのネガポジの関係にあるパラレルワールドの創出は、商業的野心による合理的選択の帰結であることを無視すれば、悪意ある悪戯以上の意味を持ちうるのだろうか?

仮に押井作品を作品として論じるならば、甘崎庵氏が『ビューティフル・ドリーマー』でなされていたように、技術面に焦点をあわせること以外に芳醇な意味のある行為には至らないような気がする。

だからこそ技術面を進化させた『2.0』を生み出した必然性があったのかもしれない(2,0の声優の変更については後述)。

ところで、押井守が描く世界像は「神の不在」の世界だと気がついたのは、見終わったあとの感じが、村上春樹作品の読後感と似ているなと気がついてからだ。

父のいない世界というのは、ニーチェによって顕在化されて以降現在まで続く欧米の世界観である。押井アニメや村上作品が欧米に受け入れられたのは、彼らの生きている世界像としっくりくる世界像が作品の中に展開されていたからに違いない。しかしそれ故に、彼らの作品は、欧米の文脈に生きる人には祝福となるが、そうでない人にとってはせいぜいがよくできた記号の集積に過ぎないのではないか?村上および押井の作品の物語としての共感度は、その作品に接した人のキリスト教文化度と比例するはずである。ぶっちゃけ、キリスト教文化圏のマーケットは日本マーケットよりでかいから商業的に成功した=世界化した=普遍的価値を持っている、とその世界的な賞賛を持って押井作品を賛美する方々の多くは錯覚しているだけなのではないか、と言ったら言い過ぎか。

★☆★以下2.0の感想★☆★

オシイ攻殻機動隊はシロマサ攻殻機動隊(原作)の世界観の真逆を張っている。そのことが、人形使いの声優が家弓家正から榊原良子になってよりいっそう明らかになった、と思う。

シロマサ攻殻機動隊で、草薙素子が人形使いとの融合を受け入れたのは、新たなる可能性への好奇心からだった。ゴーストを持つ史上初のネット生命体である人形使いが完全な生命体となるために草薙素子を欲した、その人形使いの動機こそが素子の琴線に触れた、だから融合した。「私が私でいられる保証は?」「保証は全くない。人は常に変化するものだし私もその機能を欲している…」つまり融合の結果はバージョンアップということである。そして素子はそれに魅力を感じた。

ところが、オシイ攻殻機動隊では、草薙素子への人形使いの融合への誘いは、同時に死への誘いに変質させられている。「私が私でいられる保証は?」「その保証はない。人は絶えず変化するものだし、君が今の君自身であろうとする執着は君を制約し続ける。」ここで人形使いの言う「執着」とは素子の生への執着を暗示している。なぜなら、このやりとりの直前の対話で、結合がタナトスと引換えであることが明示されているからだ。「融合したとして私が死ぬときは?遺伝子はもちろん、模倣子としても残れないのよ?」「融合後の新しい君は、ことあるごとに私の変種をネットに流すだろう。人間が遺伝子を残すように。そして私の死を得る。」つまり結合はバージョンアップではなく、代謝なのである。(原作のこのやりとりは微妙にしかし確実に違うニュアンスで行われている。興味のある方は直接確認して欲しい)

シロマサ攻殻機動隊での草薙素子は(そしてS.A.C.=TV版のことです、ではなおさら)大人の女性として描かれていた。人形使いが最後に逃げ込んだ義体は女性型だったが、融合の場面は明確に成人男女の営みを比喩として描かれている。ところが、オシイ攻殻機動隊での草薙素子の精神段階は、成人に達していない。なにしろ自分に責任を持った生を生きてはいないのだ。殺人をいとわない職業についていながら思春期の少年のような未熟な自己認識に甘んじているというのは勘弁して欲しい。「もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いやそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。自分の脳を見た人間なんていやしないわ、所詮は周囲の状況で”私らしきもの”があると判断しているだけよ。もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら?その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」「くだらねえ」バトーならずとも、大人の容姿をした人間に目の前で唐突にこんな甘ちゃんの台詞を吐かれたら白けてしまう(もし存在論的な意味合いを問うことを主眼とした台詞にしたいのだったら、甘えた言い方にすべきではなかった。演出が悪すぎる。これじゃあまるで『中学生日記』だ。原作でこれに相当する素子の台詞が発せられるシーン(原作p.104)は喫茶店での友達との会話に於いてであり、だからこその意外な怖さとリアリティが完璧に台無しになっている)。

人形使いに「私たちは似たもの同士だ。まるで鏡をはさんで向き合う実体と虚像のように。」と言わせ、素子がそれを否定せず融合するということは、人形使いとの融合が生命体としての成人の健全な営みではないことを意味する。そのことは、人形使いの声優が男性である家弓家正から女性の榊原良子になったことにより、より明らかになった。融合は、未来への意志ではなく、単なる肥大化した自己愛の絶望の儀式となってしまった。草薙素子は自殺した、そう考えるのが適切だと思う。

昨今のネット事情を見れば、シロマサの描く世界より押井の描く世界の方がより実際の世相を反映しているのかもしれないが、それは押井の洞察力の故というよりは、押井の作家性の幼形成熟(ネオテニー性)のなせる単なる符合なのではないかと思っている。

そして今、世界に必要とされているのは、オシイ攻殻機動隊の未熟な素子ではなく、シロマサ攻殻機動隊のたくましく成熟した草薙素子なのではないだろうか。

追.大人になることは存在論的な疑義を不問に付す生き方をするということだ、と言いたいわけではない。逆に、常に存在論を問い続けることに耐えうる生き方をも選択肢に入れた生き方ができるということだ。私は存在しないのかもしれないという問いはサイバー社会でより顕在化するのかもしれないが、その問い自体は新しいものではない。空海を挙げるまでもなくむしろ日本仏教の伝統的な問いと言って良い(色即是空、空即是色は子供でも知っているフレーズだ)。原作から日本的意匠を丁寧に外した押井だからこそ、その問いに大人の答えを用意して欲しかった。舞台を中国人街に変更し、融合の場面の背景を、カバラの奥義、生命樹というよりは天御柱ね、と書いたシロマサの原作からわざわざカバラの生命樹に変えて描き込んだ理由は、海外で売らんがためのさもしい理由のみであっては欲しくないのである。

(評価:★3)

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