[コメント] ターミナル(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
最初に、多分誰も書かないと思うので、変な蘊蓄を垂れ流させていただく。
原題である『TERMINAL』という言葉は通常日本では「駅」という訳がされるが、これは実際は「終着駅」というのが正しい。電車であれ、飛行機であれ、ここが最終目的地となっていく訳だ。これには実はちゃんとした訳がある。terminalの語源はローマ神話の神の名前“テルミヌス”から来ている。このテルミヌスというのは、元々カピトリーノの丘に住んでいた古い神だったのだが、その後ローマがギリシアの影響を受け、いわゆるオリュンポス十二神を受け入れた際、カピトリーノの丘にそれらの神々を迎えることになった(例えばゼウスはユピテルという名前になったが)。カピトリーノの丘の神々はそれによって要するに追い出された訳なのだが、ただ一柱、テルミヌスだけが最後の最後まで抵抗したという。この故事に倣い、テルミヌスは新しい役割を与えられることになる。「境界の神」である。つまり、最後の最後まであきらめずに国を守るというローマ市の守護神となったのだ。
…長々こんなくだらないことを書いたのは、つまりこの映画におけるJFK空港とは、ナボルスキーにとって、まさにテルミヌスとなったからに他ならない。彼はこの神に阻まれてアメリカへ入ることが出来なかった。と言う具合に見る解釈が出来ると言うこと。そんなことはスピルバーグ自身も考えてなかったかも知れないけど、その点が大変気に入った。独りよがりな楽しみかも知れないけど、これが私の映画の見方の楽しみの一つなのは間違いない。
さて、それで本編について書かせていただくが、正直に感心できた部分が大変に多い。
スピルバーグはそもそもSF映画の監督として見られることが多いけど、実際、それは「これまで誰も観たことがないものを作ってやろう」という意気込みのようなものがあったからだろう。しかし、実際彼が本当に「これまで観たことのない」ものを作ったとして、その後にどんどんそれを踏み台にして同じ表現での映画が作られてきていた。現在映画作りで主流になっているCGだってメジャー作品として投入したのはスピルバーグからだ。
そのスピルバーグが今回全くこれまでとは違うものを作ってしまった。彼が今回用意したのは空港そのもののセット。ラストを除き、ほとんど全てがこの空港内で物語は展開していく。その意味では本作は閉じた映画だと言っても良い。この中でハンクス演じるナボルスキーは友人が出来、恋人が出来る。その中でCGが使われているような部分は全然ない。勿論そりゃ仕上げのエフェクトなんかには使われているんだろうけど、ここには生の演技こそが中心となっていく。特にこのセットは凄い。ある場面でカメラが360度ぐるっと回るシーンがあるのだが、それはこのセットがどれだけ完璧に作られているかがよく分かるところだ。
主人公は勿論ナボルスキーなのだが、この閉じた空間こそが実は主人公だと言っても良い。ここに存在する空間の中で様々な人間関係が形作られ、場合によってはそこで別れも生じる。それら全てを包み込み、空間に意味が持たせられる。これだけ巨大なセットには相当な金がかけられたのだが、それが見事に機能していた。それだけでなんか凄い映画を見せられた気分にさせられた。スピルバーグ、良い金の使い方したな。感心するよ。
その空間が主人公だとしても、勿論中心となるのは人間である。その意味でもハンクスを中心とした役者陣が見事に機能していた。ハンクスの魅力は多々あるけど、何より素晴らしいのは、会話や立ち居振る舞いの間がもの凄く良い。特にこの作品は思ったより言葉が少なく抑えられている。会話ではなく、その間合いと雰囲気できちんと自分のみならず、相手となる人物を映えさせていた。
ナボルスキーは最初英語が分からないので、動作や表情で相手に意思を伝えようとしてる。やがて徐々に英語に慣れ、コミュニケーションは会話中心となっていくが、実際のコミュニケーションに言葉を用いてること(少なくとも彼にプラスに働いた事柄に関しては)はほとんど無かった。彼が他の人達とコミュニケーションを取ったのは、その大部分が言葉ではなく行動によっていた事に気づくだろう。
勿論ハンクスだけじゃない。その周りの人間達も魅力的だ。最初冷たくナボルスキーを扱っていた空間が、彼の行動によってどんどん暖かくなっていく。主人公は空間なのだが、その空間を形作る人間を描くことで、初めて空間の変化を作ることが出来るのだから。中でもあのインド人グプタ(パラーナ)の魅力は凄かった。コンプレックスのためか、あるいは後ろめたさのためか、人を拒絶する性格をしていたが、それがどんどんナボルスキーに対して優しくなっていき、やがて彼のために自分の生き方をも捧げていく。見事な演技だった。このターミナルの雰囲気そのものを良く表した人物だった。それだけじゃなく、ここに出てくる人物は皆、決して完全な悪人としては描かれていない。警備部の人間でさえ、しっかり良い意味での見せ場が作られていた。
これは実は大変オーソドックスな作品に見えつつ、実は映画というもの根本を問いかけた作品なのだ。映画は演出と人間によってなされる。セットと、人間同士の間でここまでのものを作った事に素直に感心する。
おおむねこれらはプラス方向だが、マイナス方向で言えば、ゼタ・ジョーンズ演じるアメリアとの関係がちょっと切なすぎる感じがしたのと、やっぱり相変わらずの字幕の悪さ。最初に字幕の名前見ただけで、“やばいだろうな”と思ってたけど、本当にそうなってしまった。「スッチー」はやめい!なんせまあ、字幕だけで点数を減らせてくれる翻訳者だもんなあ。今回も健在だったか。
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