[コメント] 都会のアリス(1974/独)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
しかし、同時にひとりでないと書けないし、どこかで泊まらねば綴れない。
青春時代をとっくに過ぎ、精神と心はいつのまにか乖離してしまい、いつしか「自分」を見失ってしまった諦めと虚無感、その中で去来する焦燥。それゆえに「目で見たものが、写真に写せない」、その自己と世界との決定的な距離感、その中で心を蝕んでいく孤独。それゆえの郷愁、旅のあとのまた旅が始まる。
これから青春時代を迎えようとする少女アリス。彼女の目に、彼はどのように映ったのだろう。そして、なぜ、彼にすがったのだろう。俗な言い方をすれば、アリスは、フィリップにとって「天使」、トリックスターなのではないだろうか。
その意味で、アムステルダムでの理髪店でのやりとりや湖で日焼けをしている女性との接触は象徴的だ。アリスが案内すると観光に引張り出したアムステルダムを彼は「見たくない」と拒絶し、自ら世界からの孤立を選択、宣言する。言語的にも世界と孤立している彼を、彼女は通訳として接続するのだが、それはあくまでもトリックスター的な接続である。湖の女性との接触、その後の態度も然りである。
アリスは、フィリップの世界を破壊しているように見えて、彼と世界をひとつにするたったひとりの接続者だったのではないだろうか。
胸の痞えが取れたように、「物語を書くよ」とようやく世界と自分自身との和解を決心した彼のことば。「アリスは?」と尋ねられた彼女、窓を開け、身を乗り出し、今はまだ見えぬ列車の行く先を見る、どこか切なげな顔。役目を終えた今、いずれ、ふたりは別々の道を行かねばならないことの悟りを見たような気がする。彼女もまた自分の旅に出ねばならないのだ。ラストの俯瞰は、アリスの行き先の無限の可能性と、フィリップの世界との統一感を見せ、その解放のエネルギーが心に広がる。
そう、コーンフレークのミルクは自分でかけるのだ。
〔★4.5〕
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『セントラル・ステーション』の原型はここにあったんだな。『ペーパー・ムーン』とはどうだろう。『EUREKA』とはどうだろうか。
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白状すると、ヴィム・ヴェンダースは僕の食わず嫌い監督のひとり。もう10年以上前になるが、ライ・クーダーのサウンドトラックが気に入って、『パリ、テキサス』を観たのだが、その時に感じた違和感がどうも肌に合わず、今まで避けてきた。
その頃、僕はニューヨークにいた。写真家を目指していた友人がいたが、彼女はヴィム・ヴェンダースが好きだった。彼女に『パリ、テキサス』での違和感を話すと、一本おすすめの作品を紹介してくれたのだが、どうも思い出せずにいた。
胸の痞えが取れた。そう、この映画だった。この喜びと感謝を伝えたいが、彼女とはもう音信不通だ。
だが、悲しくはない。彼女も僕も旅をしているのだ。縁があれば、またいつかどこかで出会うだろう。
今は、彼女のアパートのトイレに、マッチが置いてあったその由来の謎が解けたことに、クスリと笑っておこう。
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