[コメント] カナリア(2004/日)
ストーリーについて・・・実はストーリーについて私は評価に困っている。だから、レビューでこっそりと書くのです。
是枝裕和の『ディスタンス』は教団という得体の知れぬモノを正直に「得体の知れぬモノ」として立ち入らなかった。そのスタンスに私は好感を超えて賛同したものだった。
そして本作。日本人の誰しもが不快感をもよおすであろう教団内部の生活を描いた事は、例えそれが推測であったにせよ興味深い。不謹慎を承知で極論すれば私はアノ事件・教団に興味津々なのだ。いや、事件で直接の被害を受けなかった日本人はワイドショー的な感覚でアノ教団の生活実態に興味を持って当然だとも思う。
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本作のテーマのひとつとして、親に捨てられた子供・子供を捨てた親、という主軸がある。さらに教団信者のエピソードに至ると、親を捨てる(親の財産を御布施として奪う)という軸までもテーマは拡がっていく。
多くの登場人物たちが、家族という単位を自ら切り捨てていくのに対し、少年だけが「家族」という単位を信じて繋ぎ合わせようともがいていく。家族を切り捨てるという連鎖を本作では嫌という程見せておきながら、その解決策を提示する事はなかった。
レズの母親にしても洗脳された母親にしても、また少女の父親や祖父やリサイクル業の元信者も、皆その苦しみや哀しさは致し方なかった必然であり、映画はそれを傍観する。
だが、少年は妹を取り戻すというヒロイックな映画的行動でそれを打破し、なおかつ豪雨の中で頭髪を真っ白にするような狂気の一線を彷徨った事で、祖父を許すというメルヘンチックな解決策を見つけてしまった。この安易さに肩透かしを感じたのは私だけではあるまい。
そう、最初に述べたように、彼の設定はアノ教団で洗脳された少年兵なのである。 『誰も知らない』や『EUREKA』の少年のように受動的な苦痛にもがく少年とは違う設定なのである。本作は稀に見る「家族を切り捨てる」という連鎖を描く為にアノ教団を題材に設定したのかもしれないが、ならばもっと少年兵を意識して描かなければならなかったのではないか?
通常の家族愛を描く作品ならば、今回のような安易な結末もアリだろう。繰り返しになるが、彼は少年兵であって少年ではない。彼は被害者である事は間違いないのであるが、加害者(市民生活を脅かす存在)として存在する事も紛れのない事実なのだ。
私は祖父の家に石を投げつけるような恥ずかしい真似はしないつもりだ。理性ある大人であると自信もある。だが、10年の間、そして現在、オウムの信者の子供たちは各地域でどんな扱いを受けてきたか?彼等はスムーズに地域の学校に入学出来たんだっけ?もし、私の子供の席の隣に彼等が座ると知ったら・・・私は尋常さを失うだろう。
「子供に罪はない」という奇麗事はいつでも吐ける。だが実際に社会はワイドショー的な感覚で彼等を興味津々で傍観し、直接の関わり合いが迫れば恥も外聞もなく拒絶するのである。ましてポルポトの少年兵のような少年は社会からすれば凶器そのものである。
特異な設定の主人公なれば、もっともっと掘り下げねばならない要素が山積しているはずではないのか?少年に本音で接することが出来るのが脱洗脳した元信者だけというのは通りだろう。しかし、西島秀俊扮する元信者のあんな忠告だけで終わってしまうのはどうも物足りなさが残る。
全体的に良く出来た良作だと思う。りょうをはじめ役者も皆素晴らしい演技だった。あえて選択した設定も勇気があり評価したい。だからこそ、だからこそ、「微妙な加減」をぼかさないで欲しかったのです。
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