[コメント] 香港国際警察 NEW POLICE STORY(2004/香港=中国)
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冒頭から中盤にかけて、怒涛の展開と容赦ない打ちのめされっぷりに、初作における後半のハードコアを感じながら、爆弾処理のシーンで感情移入のピークを迎え、クライマックスへの期待は否応なく高まっていった。それは初作のクライマックスと同質の感情に対する期待だった。どうすることもできない権力の横暴に対するやり切れなさと怒り、それらがジャッキーの超人的な躍動を介して爆発する瞬間のカタルシスこそ、自分が待ち望んだものだった。でも、その期待は裏切られた。
今回、後半にあって敵方はめくるめく矮小になっていく。怒りをぶつける対象としての大きさと力を失っていく。彼らは端から巨大権力ではない。当初はテレビゲーム世代のモラルハザードといった社会悪としての普遍性を体現していたが、「警察官僚の父親に虐待を受けていた」などという極めて特殊な、というよりプロットの都合に則した背景設定が付加された時点で、凶悪なだけの一個人に、そして未熟で幼稚で最後は泣き喚くだけの子供に、ましてジャッキーの感情爆発など受け止められるはずもない、小さな敵に成り下がってしまった。同時に、前半から中盤にかけて貯め込まれた鬱憤は行き場を失い、霧散していく。このシナリオはエンターテイメントとして不完全だ。
しかし、このシナリオは何故か感慨深い。前半から中盤が初作ラストのジャッキーを蘇らせた功績はもちろんだが、それとは別に興味深いのは二人の若者の描き方だ。一人は裕福で残酷な家庭環境で育ち、心を失っていった子供。一人は食うや食わずの幼少を送りながらも“彼”に救われたことで、心を失わずに生きてこられた子供。想えば、両者とも自分と同じ世代であり、もっと言えばジャッキーを見て育ってきたはずの世代ではないか――クライマックスに不満を感じながらも、ラストの回想を見て、それに気づかされた。あの回想シーンは重い。ジャッキーは、あのように多くの子供の頭を撫でてきたのだ。「人生は不平等なものだ。でも、それに屈するな」と。あの子供は俺だ。俺も、スクリーンの向こうから彼に頭を撫でられて育った一人だ。強く正しく生きろと教えられて。そうして育ってきた全ての子供たちの中には、しかし、正しく生きてこられた者もいれば、道を踏み外した者もいるだろう。
クライマックス、チャン警部はジョーを殴り倒さなかった。その時のジョーは犯罪集団のボスではなく、化けの皮を剥がされながら負けを認められず駄々を捏ねる惨めな子供に過ぎなかった。そんな子供に対して、大人はどうあるべきなのか。この期に及んでの拳銃組み立てゲームはともすれば滑稽に映ったかもしれない。それでも敢えて彼が望む土俵に立ち、彼が誇る勝負で完封することにこそ意味があった。制したチャン警部の瞳の色は、俺の期待より遥かに深い色だった。耐え難い怒りと憎しみを飲み込んだ者が持つ哀れみと厳しさ。激痛を乗り越え信念を貫いてきた者だけが見せる眼差し。我らがジャッキー・チェンは、無二のアクションスターである以上に、紛れもない名優だ。
俺は彼を見て育ってきたことに恥じない人生を送りたい。
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