[コメント] 春の雪(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
今日、同居している父と母が二人で『春の雪』を鑑賞してきました。 「どうだった?」という私の質問から、三人でこの映画と行定勲監督について話しをし始めました。
くたびれた様子の父に「やっぱり長かったでしょ。」というと、「長かった。途中2回くらい寝そうになった。腰痛いし、三島由紀夫の世界観がもっと見られるかと思ったのに・・」
母には「妻夫木くん、良かったでしょ。」というと、「良かった!でも横でお父さんがゴソゴソうるさくて・・ほんまにもう。」と言いました。
父は三島の小説は読んだことがありません。だから「この映画で三島の世界観をみようとしても無理だと思う。それは小説を読むしかないよ。」と言いました。
その後、父と私はこの映画の粗を洗いざらいあげて話をしていきました。 二人の一致した意見をここへあげます。他のコメンテータの方々の書いていらっしゃるレビューと一致する点もありました。
「妻夫木の裸は普通すぎる。わざわざ見せるほどの魅力はない。キスが下手だ。」
「尺が長い。ディテールをいちいち細かくあげすぎている。画面にもストーリーの流れにもメリハリがない。テンポが悪く、中だるみする。」
「清顕と聡子の逢瀬のシーンを、もっと長くじっくり、たくさんみせるべきだ。」
「門跡のお経が下手だ。」
「聡子が死んだ犬に触るシーンは、もう少しその重要性を表現するべきだ。」
「全体的に、甘美な空気がない。毒がない。さらさらっと綺麗すぎる。」
という点です。
ただ、私と父と意見の合わなかったところは、 私は映画を見るときの心づもりというか、期待する点というのは、見る前に予め決めていく。 例えば役者を観る、映像を観る、衣装・美術を観る、ロケ地を観る、監督のセンスに触れに行く、などです。 ですので、その欲望と期待を満たされさいすれば、私の中でその映画の他の粗は帳消しになってしまいます。 ですが、父のように年に数えるほどしか映画をみない人にとっては、やはり二時間半の長さで全てを楽しめる映画ではないようです。
そして、父と話していて感じたことは、行定勲という監督は、まだオリジナリティーを確立できておらず、「何を撮りたいか」という観念があまり感じられないということです。 『世界の中心で、愛をさけぶ』が大ヒットし、続いて『北の零年』という作品は『大女優【吉永小百合】』を主役にした超大作です。この経緯をみると、この監督は、まだこの人自身の美意識やセンスが確立していないまま「売れっ子監督」「客を呼べる監督」になってしまったのではないかと思ったのです。この監督は、いま日本映画の熱が盛り返している中、一番重要な監督の一人であると思います。たくさんの制作費を出してもらえて、観客を劇場に運べる監督というのは、やはり今の日本映画界には必要だと思います。ただ、この監督が次にまたたくさんの制作費をもらい、超大作を撮り、それが興行的に成功しないというころがもし2,3回続けば、潰れてしまうのではと思いました。
現在の日本映画界を間違いなくしょって立っている一人の監督として、これからの作品がとても気になります。(05/11/13)
以下、過去レビューです。
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主演の二人、特に竹内結子が(くやしいけど)素晴らしい。衣装、美術、ロケーションもとても良かった。しかし、これは「純愛」なのだろうか。。
映画化されるという話を聞いて、原作を読んだ。三島由紀夫は初めてだった。「文章」というものが、光と色を放ちながら立体的に広がり、迫る感覚を、初めて体験した。
初めは聡子の役に竹内結子は納得行かなかったのだけど(なぜなら彼女がキライだからです)、読んでいくうちに聡子に彼女はぴったりだと思った。聡子の女性的で謎めいた部分や、無作為な思わせぶりな行動、頑固で一途なお嬢様らしい我の強さなどは、私の竹内結子のイメージと重なった。 清顕役に妻夫木聡君も、やはりぴったりだと思った。美しく、恵まれていすぎているがゆえの虚無感や苛立ち、傲慢とも幼いとも言える彼独特の孤独感や、自分を追いつめるだけの自己愛は、これもなんとなく、妻夫木君のどこかのイメージと重なったのだ。時々、妻夫木君がすごく冷めた人に感じるところからだと思う。そして彼の雰囲気や容姿が三島の世界にはまる気がした。
この二人の演技に尽きる。竹内結子はほんとに巧い。この人の演技をちゃんとみたのはNHKの朝ドラ以来だったけど、こんなに巧い女優さんだとは思ってなかった。だから売れっ子だったのか・・ 妻夫木君もすごくいい。清顕は性格の良い人物ではないから、下手をすると誰も感情移入できない主人公になってしまう役なのに、ラストはしっかり清顕の不憫な姿に泣いてしまった。 役者っていうのは、例えていうと石で、監督の演出という光を当てられて反射するもの。それがどんな色に変化するのか、どんな方向へ光を飛ばすのか、どんな強弱を持った光なのかが、俳優というものの資質や魅力なんだと思った。
衣装、美術、セット、ライティング、ロケーションの素晴らしいこと。音楽も良かった。とにかく衣装は、特に聡子のものがすんごい!!初めて見る和服の着こなし。これだけも見る価値があった。彼女は和装も洋装も似合うなー・・。夜会での二人の密会に重ねた無声映画の演出なんかも好き。
ただ、脇役が・・ といっても、さほど出番があるわけではないのだが、だから余計に配役に気になった。まず自分の原作で抱いたイメージと合わない人が何人か。この際だから細かく挙げさせていただきます。でもあくまで私のイメージです。。
まず聡子の側女・蓼科。大楠道代でも悪くはないけど、彼女はなんとなく場末のクラブの女将みたいな変な色気がありすぎる感じがした。(そういえばこの人のこうい感じは『座頭市』でも気になってあんまり好きじゃなかった。)自分のイメージでは、背が低くて声がしゃがれた人にやってほしかった。もっと従者の身分の雰囲気があって、それでいて伯爵家の家臣としての品格があって、それでいて腹黒い、世の中の表裏を知り尽くしている図太い感じのおばさんにやってほしかった。しゃべり方の感じとしては、ドラマ「大奥〜花の乱〜」に出ている余貴美子がイメージに合うんだけど、彼女では少し若いし綺麗すぎるし・・。私の蓼科像は性根の悪〜い声の低い市原悦子か、品を良くした渡辺えり子のイメージ。 あと聡子の両親。没落寸前の伯爵役には岸辺一徳にぜひやってほしかった・・。ねちねちした感じと没落貴族っぽい顔立ちとか雰囲気がすごい合ってると思う・・(でも映画ではあんまりねちねち性格には描かれてなかったんだけど)母に宮崎美子ではあまりにそのまんま過ぎてつまらないので、壇ふみ辺りにやってほしかった。一方、清顕の両親はすごく合ってた。徳に父親の榎木孝明は良かった。もう文句無く良かった。 あとは岸田今日子はいつもの通り適材適所って感じだし、若尾文子も、寺の門跡としてはムダに綺麗すぎるけど、オーラや方言もさすがに隙がなかった。清顕の唯一の友人・本多役の高岡蒼佑は、序盤こそ下手さが気になったけど、後半につれて清顕と対照的な熱っぽさや真っ直ぐな感じが良くでていて、彼ら二人のラストシーンは、それまでの純愛の雰囲気から変わって、友情物のような雰囲気が出ていた。
スパルタのキツネさんもレビューで書いておられますが、脇役にわざわざ名の知れた人(テレビやCMで見かけるような人)を使わなくてもいいと思う。主演はお客さんを呼ぶ物だからともかく、脇はメジャーな俳優でなくてもいいのに。コメンテータの直人さんは「キャストも、今の時代で侯爵・伯爵・宮家を体現出来る役者などいないのだから、期待する方が愚か」とレビューに書いていらっしゃるけど、私は映画は俳優でみる物だと思うから、「土台今の役者で○○は無理」という考えなら、元から映画を観る意味もないし必要もないと思う。もし、直人さんと同じ様な考え方の映画監督しかいなかったら、これから映画は作られない。
ところで、これは「純愛映画」なのだろうか。なんでこれを「純愛」と呼ぶのだろうか。本を読んでみて、清顕の聡子への情熱は、彼女が「手の届かない存在」になった時、初めて彼女を欲し、「彼女を愛している」と言っているのに、はたしてそれが「純粋な恋」なのか。聡子が宮家との縁談を結び、天皇の勅許が下りるという「逆境」がなければ、清顕は聡子を素直に欲しただろうか。彼らは結ばれていただろうか。彼の行動は、結局は自己愛への折り合いを付けた結果や、それを一気に発散した形に思えてならなかったのだ。でも、人の恋心なんて、元々みんなそうなのかもしれない・・。(05/10/29 劇場)
追記: ころりさんのレビューを読んで思いましたが、私も妻夫木君のキスシーンはちょっと・・彼あんまりキス上手くないですね。せっかく素敵なのに残念・・。 「方言指導」とかみたいに、「接吻指導」とかあった方がいいんじゃないのかな、これからの日本映画。あと子役の二人はいまいちでした。
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