コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 羅生門(1950/日)

“観る”を超えて“見る”に至る映画
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 これを初めて観たのは随分と前になる。正直言って理解できなかった。ストーリーそのものよりも、何故こんな悔しい気持ちにさせられるのか、何故、こんなに衝撃を受けるのか、それが全く理解できず、ただ訳の分からない悔しさと、とんでもないものを見てしまったと言う衝撃だけを残して。ただ黒澤明監督、本当にとんでもないものを創り上げてしまった。そんな想いが頭の中をぐるぐると回り続けていた。

 それから随分時が流れ、ようやくこの作品のレビューと言う課題を目の前にすることが出来た。初めてこれを観て以降、随分映画も観たし、特にこの一年というもの、数多くの映画レビューを書き綴ってきて、ようやくここまで来たか。と感無量と言う感じ。

 それだけ私にとっては格別の思い入れがある作品であり、レビューを書くに当たって、どれほどこの作品が私の映画を見る方法に大きな転換を与えてくれたか、まさに今、それを感じているところだ。

 小説でも映画でもそうだが、読者なり観客と言うのは特殊な立場に置かれる。まさに彼のために小説なり劇なりが描かれ、演じられるのだが、当の観客はその場に参加することが許されない。彼は何の前知識もないまま、突然事件に巻き込まれ、それを観るだけの存在となる。

 そこで観客の位置づけは大体二通りに分かれる。監督と共に、いわば“神の視点”を持った状態で物語を俯瞰して観る場合と、逆にその当の監督から必要な情報を故意に阻害され、自分が観ているものが事実なのかどうか分からぬ不安定な状況に置かれる場合。前者はアクション主体の映画に、後者はサスペンス仕立ての作品として用いられることが多いが、良質の映画はその両方の配分が上手い。観客が不安定な状況に置かれていても、その結果をどうしても見たくなるように持っていくような作品は、確かに少なくはない。そこまでの作品になると、俯瞰して“観る”より、自分自身の体験として“見る”こととなる。

 持論だが、“観る”と“見る”とは違う。“観る”は自分が参加できないが、それを“見る”ならば、まさにその場に自分自身が参加しているような思いにとらわれるはず。自分のなまの目を通して本当に“見た”ように思わせる事が出来るならば、それはその人にとっての衝撃となる。映画好きな人と言うのは、少なくとも何かの作品を自分の目で“見た”事があるはずだ。確かに映画は“観る”事も大切だが、“見る”事によって、理屈を超えた自分自身の体験へとなってこそ、その人にとっての満点の映画となるのだし、その体験をしてしまっては、映画好きにならざるを得ないのではないか?

 ところでこの作品はどっちだ?“見てる”のか、“観てる”のか?それに対する答えは明確だ。これほど極端に“観る”事に特化した作品もない。どの位極端かというと、観ている観客はおろか、劇中に登場するキャラクターでさえ、誰一人として“見た”者がいない、と言うくらいに極端に。

 確かに観客は“観る”位置に甘んじて良い。だが、それは劇中の人物が事実を見ているからこそ、成り立つし、安心もできる。ところがここに登場する人物達は誰一人リアルな現実として事件を見た者がいない。そこに居合わせた当人でさえ、自分の証言が信じてもらえない以上、本当に“見た”事にはならない。まさしく登場する全員が“観て”いるしかない映画なのだ。

 その結果として、リアリティは欠如し、それが故に観ている観客は不安に苛まれることになる。本当のところ、真相は一体どこにあるのか?

 しかも恐るべき事に、その答えは最後に至るも皆目分からない。“観ている”事しかできないのが、どれほど辛く、そしてこれほど不安にさせるか。それを本当に良く示していた。まるで悪夢の世界だ。

 それで気付くわけだ。“観て”いることしか出来ない映画を自分は確かに“見て”いたことに。

 いつの間にか観客は画面の中でキャラクターと一緒になって真相追求をしている自分に気付く。そしてその答えが明確に提示されない以上、主観によってどのような答えをも出すことが出来る。自分が“見た”ものとして。それを強いられ、その答えを探す内、自分はこれを映画としてではなく、純粋に自分の内に答えを出すために“見よう”としている事に気付かされるわけだ。

 今になって、レビューを書いている内、どれほどこの作品がとんでもない作品であったのか、それに思い至り、改めて慄然とする。当時覚えた悔しさや不安と言うのは、まさしく監督が、それを意図して創り上げたものだった。“観る”を通して“見る”に至るまで、きっちり計算され尽くしていたのではないか?

 “世界のクロサワ”と言われるに至るだけのことは、確かにある。これほど実験的な、そしてこれほど計算された映画を目の当たりにしていたとは。

 そう考えると、ストーリー自体も不安を増すよう作られていたと言う点に気付く。最初の内貞淑な妻を演じていた娘が物語が進むに連れどんどん蓮っ葉になっていき、最後は完全な悪女になっていたり、粗野な夜盗がだんだん小心者に変わっていく。キャラクター全員が最初に提示された前提条件を見事に粉砕してのけている。確固たる地盤が与えられない以上、不安なまま放って置かれるわけだ。

 ところで、最後に羅生門が出てくるシーンがある。これを蛇足とする方の意見も聞くが、少なくとも私はそう思わない。今までリアリティの欠如した“観る”事だけを強いられたキャラクターが、初めて、肉の暖かさ、雨の冷たさを身体に感じ、現実の厳しさというものを“見た”シーンなのだから。

 これがあるから、この物語は救われる。そしてそれさえも計算に入れた監督の技量のすさまじさをも感じざるを得ない。

 一応ここで筆を置くにして、一抹の不安がある。果たして、今、コメント書くのは正しかったのか?もう少し自分が成長したと確信できたときにこそ、書くべきだったんじゃないか?あまりに要領の得ないレビューになったんじゃないか?それより何より、伝えたいことが全然書けてないんじゃないか?黒澤明監督の魅力はこんな程度で終わるものじゃないんじゃ?(その時は潔く、直そう)

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (12 人)moot 煽尼采[*] おーい粗茶[*] picolax[*] chokobo[*] ジェリー[*] [*] ハム[*] いくけん[*] ペンクロフ[*] kiona[*] ina

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。