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[コメント] キング・コング(2005/ニュージーランド=米)

巨大さや野蛮さが恐怖の対象に成り得なくなって久しい映画界にあって、現代のコングがスクリーンの中で立ち位置を見失うことは必然であった。遥かなる夕景を見つめるその姿は、獣(ケダモノ)が獣たるだけで喝采を浴びることが叶わなくなた半獣の寂寥の姿だ。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画における恐怖、すなわち見世物の主役は現代ホラーに代表される「見えないが、存在するかも知れないもの」に、驚異は近未来やスペースファンタジーに代表される「体験し得ないが、起こるかも知れないもの」に置き換わって久しい。巨大さが、そのまま恐怖や驚異の対象に成り得たキング・コングやゴジラにとって幸福な時代はとうの昔に終わっている。

映画が誕生して100余年。その前半の50年は、急速な工業化による地球規模の距離と時間の短縮化の中、列強国の勢力拡大競争により各国の軍備が加速的に肥大化した20世紀前半と重なる。後半の50年は、冷戦体制という擬似バランスの中に全世界が組み込まれ疑心暗鬼に揺れる時代を経て、今や国家や国境という明確なくくりを持たず突如として出没するテロルの脅威が日常を席捲する時代へと様相を変えた。

人々の恐怖や驚異の対象が「巨大なもの。野蛮なもの」から、「見えないが存在するもの。体験し得ないが起こりうるもの」に変わったのだ。可能な限り多くの人々に見られることで成立する見世物産業としての映画が、この恐怖の対象の変化を敏感にとらえ反映したのは当然の成り行きであった。

ピーター・ジャクソン版キング・コングは、最早70年前の33年版キング・コングと同じ映画的地平には立ち得ないのだ。すでに、あのキング・コングはこの世にいないのだ。だからこそピーター・ジャクソンは自らのコングに寄せる思いを、有らん限りの今日的映画文法と技術を駆使し現代に再生しようと試みたのだ。

そこには、人間の女に母性を見出す獣と、その獣への愛情が一瞬ではあるが恋愛感情にまで達した女という「見えないが、存在するかも知れない」無垢ではあるが禁断の交流が、そしてワイドスクリーンのフレームと旋回運動を駆使し強調された垂直的高低差と、その不安定な空間の中で重層的に繰り広げられる濃密な躍動という「体験し得ないが、起こるかも知れない」過剰で過激なアクションシーンが繰り広げられた。

この点において本作は、今日的娯楽性を十二分に備えた成功作であったと言える。と同時に、改めてかつてのキング・コングはもうこの世界にはいないのだという事実を、明確に我々に突きつけてみせる作品となった。

コングが、あの夕景の彼方に見ていたのはものは、真から人々を恐怖と驚愕の世界に落し入れた70年前の自らの勇姿だったのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)おーい粗茶[*] ina くたー[*]

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