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[コメント] DEAR WENDY ディア・ウェンディ(2005/デンマーク=仏=独=英)

ダンディーズはゾンビーズ。死にとり憑かれた思春期のリビドー。『ドッグヴィル』の箱庭感が、演出法を引き継いでいた前作よりも却って再現されていたのには驚かされた。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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本作に於けるディックの、青っぽい理想主義を掲げるリーダー格の青年、という性格付けは、‘アメリカ三部作’の第一作である『ドッグヴィル』での作家志望の青年トムを思わせる。前二作が、「神の視点」を思わせるナレーションによって、登場人物たちの内面まで語らせていたのに対し、今回のナレーションは、ディックがウェンディ(彼の愛用していた銃)に宛てた手紙という形をとっている。超越的な視点から、内在的な視点への移行。

更に大きな変化は、今回は今までのように、床に文字と枠線で街を記号的に示し、簡単なセットしか組まない舞台劇風の演出を採っていないことだ。この演出法は、役者がパントマイム風にドアを開ける仕種をすると、効果音で開閉音が入る、といった約束事で劇が構成されている様を見せることで、物語の主題である‘慣習’や‘規則’の人為性のメタファーともなっていた。だが今回は逆に、ダンディーズが街を簡潔な文字と図で地図化して、自分たちの箱庭として見る、という、これまでとは逆の視点になっている。これは、語り手がディック自身になっていること、つまり観客を神の視点ではなく登場人物そのものの視点に引き下ろしたことと、完全に連動しているように思える。

スーザンは、銃を持つことで自信が生まれたから胸が大きくなった、と言って喜ぶが、ここには、因果関係の錯覚、内面と外見の倒錯、という物語の主題が端的に表れていると言えるだろう。更に言えば、松葉杖のヒューイが銃によって得た自信から、ナンパを繰り返すようになったり、ディックが、美しい銃をウェンディと名づけて愛し、挙句には嫉妬までしたり、ダンディーズの行なう、メンバーと銃との結婚式じみた儀式など、力と自信を得るということが、思春期の彼らのリビドーと完全に結びついているのだ。

そもそもディック(Dick)とは、Richardの略称であると同時に、男性器を表わす隠語なのだ。劇中にも、男性器を締めつけることで痛みを忘れ、攻撃性を高める儀式が紹介されていた。つまり、ディック=銃=リビドーによる、恐怖心の喪失。

黒人少年セバスチャンが、「正当防衛」で実際に銃で人を殺した男として登場し、ウェンディをその手でモノにし(たようにディックには見えた)、スーザンからも「キュート」だとか「リッチ」と讃えられる男性性を示すことで、ディックの理想主義が崩れ、去勢の不安が襲いかかる。これが結果として、ダンディーズの過激化へと至らしめていたのではないか。

セバスチャンの祖母であり、無力で痴呆も進んできた老婦人のクララベル、強盗に襲われるという妄想に怯えて外出もままならない彼女を妹の許に送り届ける為に、ダンディーズは計画を練り、メンバーを街に配置し、彼女を連れ出す。だが、守られる対象である筈の彼女が保安官に向けて、隠し持っていた銃を撃つ。暴力に過敏に怯える、最も無力な臆病者こそが、最初に引き金を引いてしまうという逆説。

ディックと親しい保安官のクラグスビーは、ダンディーズ達が銃を持つことを許可する代わりに、クララベルを引き渡すよう要求する。それを一旦は受け入れたディックたちとクラグスビーが対峙する場面は、古典的な西部劇の決闘シーンのような構図をとっている。クラグスビーはディックに言う。「君は好青年だ。私と君とはよく似ている。君のような青年がいるからこの国があるんだ」。つまりアメリカ的正義の逆説を体現する青年としてのディック。思えば、古い銃に魅了され、現代的な銃には見向きもしない少年たちは、つまりはアメリカの古典的な価値観の体現者として描かれていたのではなかったか。

だが、この時、クラグスビーが所持する銃が「08ポリマー」、ディックの考えでは「裏切り者の銃」であることが明らかになったせいで、ダンディーズは交渉を破棄して逃亡する。これは、アメリカの理念が、その道具、手段に過ぎない筈の銃にしっぺ返しを食らった場面ではないか。この後、クラグスビーが「ウォーカー連邦保安官が来るぞ」と同僚に告げ、「あのウォーカーが?」と驚くその同僚の反応からして、アメリカの法と正義の象徴がやって来るのだということが予告される。だが彼もまた、クラグスビーと同様に「そのオンボロ銃を捨てろ!」と、少年の手にしている古い銃を侮辱したことで、あっけなく射殺されるのだ。

地下の坑道で働くのを嫌がっていたディックが、結果的にはダンディーズという組織を地下に潜らせ(地理的にも状況的にも)、アンダーグラウンドなアナーキストのように葬られるという逆説。彼がウェンディに残した赤い花と手紙は、『マンダレイ』での、男性性や力の象徴的存在である、グレースの父の手紙を想起させる。

ディックが呟く「ウェンディ、君を守れなかった」という言葉は、自らの身を守る筈の銃が逆に、守るべき対象となるという倒錯を示している。未だ平和主義的段階にとどまっていたダンディーズに於いて、銃を撃つ、という禁じられた行為が「愛する」と呼ばれていたことに既にこの倒錯は表れていたのだ。

最後にディックは、望みどおり、彼が愛したウェンディの銃弾で致命傷を受ける。それを撃つのが、「正当防衛」でしか人を撃ったことのない筈のセバスチャンであるのも大事な点。その「撃つ」という行為のやむを得なさは、自己防衛の必要からではなく、友人の望む死を与える為のやむを得なさなのだ。その直後にディックが保安官たちの一斉射撃を受けるシーンで流れる「Glory! Glory! Hallelujah! 」と歌われる曲は、南北戦争の勝者である北軍の行進曲として歌われていた“リパブリック讃歌”。ディックの死は、銃弾から生まれ出た国、アメリカの理念によって与えられたのだ。

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