[コメント] ポビーとディンガン(2005/豪=英)
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荒地にオパールの山を夢見る採掘者たち。一攫千金を手にするのはほんの一握り。それを夢見る父と兄。そんな父に惚れた母。採掘者の中には父のようなロマンチストもいれば、都会でからあぶれた者もいただろう。もちろん、元弁護士、医者、母の同僚など善良な人たちもいた。ただ、みな多かれ少なかれ現実に直面できないでいた。 そんな中、妹はポビーとディンガンに逢った。
妹にとってポビーとディンガンは現実だったのだろうか? それとも、やはり虚構だったのだろうか? よく判らないが、私はそれは現実でも虚構でもない「神秘」だったように思う。 兄の見つけたオパールと棒切れはまさに神秘が具現したものだったのではないだろうか? そうでなければ、妹を信じる信じない以前に、兄はキャンディの包み紙まで準備した計画的盗掘犯になるだろう(あの穴は元は父の穴でも権利を失っていた穴)。
神秘に接したとき、兄は何を悟ったのだろう? 兄はオパールを代価に葬式を催した。そのオパールは結局兄の手元に戻ってくるが、この往復は一体何を意味したのだろうか? そして、棒切れはどこに行ったんだろうか? この辺りから、私は本作に違和感を感じるようになった。 本作の流れからすると、このオパールと棒切れは同じ扱いで妹に渡されるか、一緒に埋葬されるべきだったように思う。 兄は神秘を手にしながら、妹のように神秘を観ることが出来なかったようだ。
ラスト。葬式に参列した町の人たちは現実と和解した、本当だろうか? 兄の町の人への振る舞いは妹を想う善意から来ているものの虚構を弄していたようだ。それでは現実を魔や化しただけで元鞘だ。神秘を解せない兄にはそれを虚構化するより他なかったのかもしれないが、このような物語はティム・バートンの『シザーハンズ』や『ビッグ・フィッシュ』のように、たとえそれが虚構であろうと、その中に現実と神秘の交点(和解)を描くことによってはじめて完結できるのではないだろうか? 妹を思う兄は良かったんだけど、やっぱり神秘の扱いのバランスが悪かったように思う。
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