[コメント] 博士の愛した数式(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
黒澤明は言ったものだ。「台詞が無くとも分かる絵が必要だ」と。 なんだこの言わんでもいいことをベラベラベラベラしゃべる登場人物は。 どこの世界に、一介の家政婦に自分の不倫体験を語る女がいるだろうか? んなもん、キャバ嬢相手にモテ自慢するオヤジしか見たことねえぞ。
この映画に対する私の「負い目」は原作を読んでしまっていることだ。 実際、「これからどうなるんだろう?」感は無い。 だが、小説と映画は別の媒体である。 従って違って当然、原作との比較は愚かしいことである。 だが、この一点だけは言わせてくれ。 原作はこんなに矛盾した話じゃない。
(原作との比較以上。以下は原作抜きに、純粋に映画だけを読み解いていく)
これは何の物語だろうか? 「これからはこの木戸を開けておきますね。」 その結果、浅丘ルリ子と深津絵里が和解する物語に読み取れてしまう。ところがこの映画、深津絵里の息子視点で語られるのだ。そのくせ、物語の重要なターニングポイントに息子は常に立ち合っていない(あまつさえ途中で唐突に母親ナレーションに変わった上に浅丘ルリ子の回想まで入ってしまうご都合主義!)。 じゃあ、一体何のための息子視点なのか?それはただ単に数学を説明するためでしかない。 そこに映画的な意味は一切無い。
だいたい、長々授業聞かされて「ありがとう」なんて言う中学生がいるか? 「面白かった」なら分かる。だが「ありがとう」ときたもんだ。それも顔も写さずに。 根本的に人と人の精神的なぶつかり合いが嫌いな監督なのだろう。 そういう所がジイさんの発想なんだよ。
「80分の記憶」という設定を、早々に「きっかり1時間20分」と念を押すシーンがある。 映画のお約束からすれば、「この“時間”を使いますよ」と宣言していることになる。 だが使わない(原作では病状が悪化して記憶保持時間が短くなっていく)。 いや、使わないなら使わないでいい。何も原作と一緒である必要はないのだから。 だが、使わないなら念を押すな。 日本随一「伏線をきっちり使い切る」黒澤明の下にいて、お前何やってたんだ?
「数学は世の中の役に立たない」的な台詞が出てくる(これは原作にもある)。 それはいい。実際「役に立たないから美しい」ものがあることも認めるし、俺はそういうものが好きだ。 ところがこの監督はそうではないらしい。 舌の根も乾かん内に「数学と農業は似ている」(これは原作にはない)と言い出した。 「自分のフィールドを見つけて種をまき育てる」だから似ていると。
アングリ口を開けてしまった。
原作に無い創作だから文句を言ってるんじゃない。あまりの底の浅さに驚愕しているのだ。 バカかこいつは。そんな理屈、数学以外のどの学問だって、否、学問以外のどの分野だって同じじゃないか。
要するに「役に立たないから美しい」ということを口で言ってるだけで、理解できていないのだ。 農業だの、あるいは頻繁に映し出される川や花といった自然に置き換えなければ、「美しい」ものが理解できないのだ。
「数学は神が与えた美しさ」というクダリがあるから自然との比喩も一見誤りではないように見える。ところが、「時は流れず」決して変わることの無い数学の絶対的な美しさ(例えばいつの時代でも三角形の内角の和は常に180度なのである)に対し、自然の美しさは「移ろいゆく」美しさなのだ。 これをあえて対比させたというなら許そう。だが決して季節が移っているようには見えない。要するにこの監督、自然の美しさの意味も分かっていないのだ。花だの川だの海だの写してれば「いい映画」だと思っている、悪い日本映画の見本だ。
結論を言えば、この映画、「与えられた企画物」なのだろう。 流行り物の小説を映画化する。誰か適当な監督はいないか?それで小泉堯史に白羽の矢が立ったのではなかろうか。 原作はおろか、数字に対しても野球に対しても、否、この作品の登場人物誰に対しても、監督の愛情は微塵も感じられない。仏作って魂入れず。これはそういう映画だ。
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