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[コメント] ミュンヘン(2005/米)

冴えるショットは自重気味? いっそ「秘密戦隊ゴリンジャー」とかだったら、どんなに面白いスパイアクションを撮っただろうか…。テーマの重さが正直恨めしい気も。本作をとりあげる上で監督の態度の正直さはまぎれもないんだが。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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最初のエレベーターホールでの暗殺で、狙撃を行ったアブナーたちがその場を去った後、後始末役のメンバー、カールがアパートの入り口から入れ替わりで入ってくる。通路にこぼれた牛乳が1個の薬きょうを浸していて、カールが近づくと絶妙のテンポで牛乳の上に滑るようにスーッと鮮血が広がっていく。血が薬きょうに触れるか触れないかのタイミングでカールはそれをつまみあげる。

こういうのを見ると、どうしてこの監督はこういうふうに冴えたショットを撮ってしまうのか? 2重の意味で思う。ひとつは正直に上手いなあということ。これは明らかに「かっこいい描写」だ。どこかで見たようなシーンだけど、やっぱり映画をよく知っているよなあと思う。欧州の都市から都市をめぐる美しいロケもあいまって、こうなってくるとスピルバーグが撮った娯楽スパイ活劇っていうのをやっぱり見たくなるのが正直なところ。で、もうひとつは、全体としてはアクションを無様に描き、それが「リアルなかっこよさ」を喚起することにさえならないように、あえて弛緩したテンポ、切れの悪いカメラワークで描いているのに、やっぱりこういうカットを一つくらいは入れたくなっちゃうもんなのかなあ、ということ。

社会性と娯楽性の両立を目指しているのはわかるし、その心がけも良いと思う。「イスラエルとパレスチナ」という題材は、俺がメジャーでやってこそ意義があるという使命感だろう。プロデューサーとしての目、監督としての目、総合的な見地から選ばれたのが「標的は11人」というノンフィクションというわけだ。

イスラエル・パレスチナという重い題材を扱うにあたって、このテキストを選んだ理由を想定すると、やはり暗殺を遂行していくその「スリリングさ」に娯楽部分を牽引してもらおうとする意図があるんだと思う。そうであれば「5人の殺し旅」のワクワク感はぬぐいがたく表出してしまう。それをなるべくそっけなさそうに撮らなければいけないという苦しさがこの作品全体を覆っている。

アクション演出が決して快感をもたらしてはいけないと得意技をセーブする。監督は、社会性と娯楽性の板ばさみにあっているのだな、と思ってみる。しかし、どうもすっきり納得できないのは、そもスピルバーグは、なぜ社会性のある材を実際に起こった歴史の出来事から取り上げようとするのか、という疑問からだ。社会性のある問題は、そのエッセンスを汲み取れば、架空のエピソードでもいい。そのほうが筋を自由にコントロールできるし、実在のさまざまな制約をかわすことができる。監督の敬愛する黒澤明だってキューブリックだってみなそうすることで、テーマと娯楽の両立を成し遂げている。それは隠喩や寓話が「好みじゃない」ということなのかもしれないが、どっちかというと、むしろ監督は、社会性のある問題の「表象」に興味があるのであって、その中身たる「本質」にはあまり興味がないのではないか、ということのほうが近いふうに思うのだ。

社会の話題には関心があるが、それがそもそも抱えている問題の本質を究明していくことには関心がないんだと思う。言い換えれば、ユダヤ人映画作家として「イスラエルとパレスチナの問題」の本質に興味があるのではなく、「イスラエルとパレスチナ」の葛藤という事象に興味があるだけなのだと思う。

監督が本作で描こうとした「娯楽」のほうではなく、「社会性」、すなわち「テーマ」のほうは何だったのだろう。

この事件が起きた頃は、ヨルダン〜レバノンでPLOが組織され、「パレスチナ=テロ組織」としての体裁が整い出した時分である。本来のパレスチナ人と関係のない連中(例えば日本赤軍とか)だって混じっていただろう。「イスラエルとパレスチナの問題」を描きたいのなら、相手が「ゲリラ」となってから起こした事件を振り出しにするということ自体がフェアじゃないし、しかも本作のドラマはそれに対しての「報復作戦」を描くものだ。監督は「標的は11人」から「イスラエルとパレスチナの問題」の何を撮りたいと考えたのだろうか?

スピルバーグは題材から「本質的な何かをくみ出す」のではなく、自分の関心事に「見あった素材を選ぶ」タイプの作家なのだ。そしてその関心事に「イスラエルとパレスチナの問題」は僅かしか含まれていないのではないだろうか。だからこの作品は一国内の「国家と家族の問題」として収斂する。イスラエルとパレスチナの両者の引くに引けない関係の酷さ。しかも、そのこんがらがった事情を引き起こしたのは国際政治の身勝手さにあって、イスラエルとパレスチナはそのツケを負わされているといっても過言ではい。両者の報復と報復という負の応酬の悲劇を描くこの話って、「国家と家族」という落しどころでいいのか? 間違ってはいないが、あってない。そんな気がしてしまう。自分の関心事という見地から対象を描くのは当然だし、監督にとってこの問題は「国家と家族」の問題だというのが監督の真実なのであればそれはそれでいい。私が違うと思うなら、私がそういう作品を撮るべきなのであって、監督のやることにどうこういうべきだはないのだと思う。ただやはりこの題材をとりあげることへの、世間の注目という計算は間違いなくあって、そこに自分の好きなテーマを嵌めこんで整えてみた、という印象がぬぐえない。そんなわけで−1点といたします。

(評価:★3)

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