[コメント] ミュンヘン(2005/米)
選手村襲撃、報復テロ、悔悟と恐怖。3要素の配列バランスが悪く、全て緊張感のない凡庸描写。しかも、アヴナー(エリック・バナ)の苦悶は国家と家族という今更感一杯の矮小さから一向に抜け出すことなく、いつまでたっても現代の世界観とは交わらない。
家族の集合体が国家であり、国家の維持が国民(家族)の幸福を約束する。であれば優先されるべきは国家か家族かという問題は当然存在する。しかし、もっと巨視的に今の世界を見渡せば、この問題は一部の恵まれたユダヤ民族やアラブ民族の面子と利権が生み出す、ある意味で贅沢な問題でしかない。
中東アジアから東ヨーロッパには、国家どころか家族の成立すら困難な民族が点在している。この数年、やっと発信されるようになったアフガニスタン、イラン、イラクといった国々の映画の中に込められた、その想像を絶する悲痛な訴えに気づき私たちは愕然とする。
そこに描かれるのは国家と家族以前の、個人(それも最弱者としての女や子供)としての幸福の在り方と尊厳の問題であり、戦うどころか祈ることしかできない奪われ続ける民族の姿だ。
誤解を恐れずに言えば、「スピルバーグも私たちも贅沢な悩みの中を生きているのだ」。もっと不幸な状況と、そこに暮らす人々の存在を知ってしまったいま、そんな感想を私に抱かせてしまうこの作品は、現代的世界観を欠いた失敗作でしかない。
今という時代において民族対立という問題を国家と家族の幸福という矮小な二項対立軸の中に閉じ込めてしまうスピルバーグは、やはり恵まれたアメリカという国の豊かなユダヤ人でしかなく、その視点の狭さが犯した罪は影響力ある映画作家として重い。
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