[コメント] 力道山(2004/韓国=日)
この映画も、力道山どころかプロレスさえあんまり観たことがない一般の素人さんにとっては、まずまず悪くない入口なのかもしれぬ。内容はほぼフィクションで、まあ判りやすく作ってはいる。
だがオレにとっては、まったくいただけない映画だった。史実と違う部分が多すぎるのは普通に気になったが、ナニそれは別に構わないのだ。そんなことは些事に過ぎない。問題はもっと根本的なところにあり、結果オレにはこれが力道山を描いた映画だとはどうしても思えなかった。
良く言えばこの映画が描いたのは、国と国の狭間で時代に翻弄されながら強く生きた男の人間像だ。ああ、そりゃ確かに立派な話だよ。そこそこ観られる映画になるだろうよ。しかしそれなら、なにも力道山である必要はなかったんだ。たとえば極真空手の創始者・大山倍達の生涯を映画化したとしても、この映画の作り手は大山倍達の人生をフィクションで塗りつぶして『力道山』とほとんど同じような映画を作ったのではないだろうか。オレには、そう思えて仕方がなかった。
この世には稀に、何もかもがケタ違いの人間が実在する。この映画の作り手が理解できなかった、信じられなかった、ゆえに描けなかったのはこの一点に尽きる。「人間・力道山を描く」ということは、我々が理解し共感できるレベルまで力道山を引きずりおろすことではない。オレはこの映画を観た人々に呼びかけたい、力道山をこんなもんだとは思ってくれるな。これで判ったような気になってくれるな。何故ならばこの映画は、彼の凄さをビタ一文描いていないからだ。
この映画には「オレは朝鮮人でも日本人でもない、世界人だ」という台詞があった。そう、それは本当にその通りなんだが、だったら力道山の世界人っぷりを見せてほしいのだ。あの時代にあって、力道山がいかにケタ外れのエネルギーを持つ男だったかを描いてほしいのだ。それがなければ、あの台詞はウソになってしまう。力道山が言うだけ番長になってしまう。
不勉強な作り手のためにほんの一例を挙げるなら、力道山が昭和34年の「ワールド大リーグ戦」で日本人に「世界」というものをまざまざと見せてくれたのは東京オリンピックの5年前、大阪万博の実に11年前のことだ。力道山がいかに先見の明を持って時代を引っ張っていたことか、イヤまあいいや、この映画の作り手はどうせそんなことには興味ねえんだろ。
この映画が描いたのは、ズバリ言って成りあがり者の一代記である。こんなチンケなスケールの映画が作りたいんだったら、なんでまたよりによって力道山をモチーフに選んだのか、まったく理解に苦しむ。作り手は力道山晩年の、薬に頼るような「弱さ」なら嬉々として描くのだが、あれほどの男がなぜ薬に頼らざるを得なかったのか、力道山が時代の先っちょで、誰にもできないことをやり続けながら独り感じていたであろう強烈な逆風とプレッシャーはビタ一文描かないのだ。もしかしたら、想像さえできていないのかもしれない。
そんな作り手にも出来ることといえば、せいぜい妻との物語(と言ってもほぼ架空の話だ)を中途半端に掘り下げるのが関の山だ。過去の英雄を矮小化することで、現代のボクちゃんにも理解でき感動できるホームドラマが一本できましたってことだ。これはチンケだ。現実の凄さに劣る、しょうもないフィクションだ。もしこれが梶原一騎なら、凄い現実をもっと凄いフィクションに仕立て上げてくれた筈なのだ。これはもう絶対そう言いきれる。語り部たる素質のない連中が凄玉・力道山に手を出したのがそもそも間違いなのだ。そんな手は引っ込めておけ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (7 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。