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[コメント] メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬(2005/米=仏)

不法移民の流入という政治性を背景とした本作を、修正主義西部劇のようなアメリカ人とメキシコ人の交流のドラマとみなす事も可能ではある。しかしこれは、テキサス州の国境の町を覆う現代の陰鬱をアメリカの文脈で描写した、いささか回顧的な開拓者精神についての映画である。
shiono

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アメリカの地方都市に顕在するアイデンティティ・クライシスは、借り物のキリスト教的欧州志向や、無批判な第三世界のエスニック崇拝によってではなく、アメリカの文脈によって描写されなくてはならない。

主人公トミー・リー・ジョーンズの価値観は、ひとえに実行力を伴った純粋な肉体労働にある。これは西部の大地で生きていくうえで必要不可欠な能力であり、この能力に秀でている者に対しては国籍人種を問わず尊重する態度を、彼は半ば生来的に持っている。

フリオ・セザール・セディージョとトミー・リーの友情は、職能を通じた信頼関係に加え、モーテルでのWデートのあとの、別れ際の多幸感によって十分に語られている。これ以上、何も付け加える必要はないと言わんばかりの簡潔な人間関係の描写だ。

そんなトミー・リーにとって、機能不全の職能ほどフラストレーションを掻き立てるものはなく、政治的配慮でうやむやになりそうな国境警備隊と保安官の腐れ縁を看過できないのも頷ける。私恨に重きを置くと見失うポイントだろう。

バリー・ペッパーを文字通り手足のように使って埋葬・発掘・搬送という労働をこなしていくトミー・リーは、僻地に生きる他者への尊重を忘れない反面、不凍液やメキシコ領内での英語会話に信を置く現実主義者の横顔も見せる。この旅の道程に同期して腐敗していくメルキアデスの顔の造作もまた、この労働行為によって映画的に納得できるものになっている。

国境の南の国が、かつてのような再起の場所としては機能しないことを、恋人への長距離電話で明らかにしたのち、辛抱強く目的地を特定したトミー・リーが遺体を埋葬しただけでは飽き足らず、そこに村を建設してしまうところからも、彼が己の肉体を酷使した労働だけを、ただ信じるに値するものとしていることがわかる。

確かにバリー・ペッパーの告解も、彼が自ら投下した資本に見合った魂の浄化を手に入れたことを意味するのだが、やるべきことをすべて終えたトミー・リーにとってはもはやペッパーの存在は興味に値せず、ただ彼をお払い箱にして去っていくのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)赤い戦車[*]

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