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[コメント] ダ・ヴィンチ・コード(2006/米)

原作のダイジェスト版でしかなく、映画単体として楽しませようという意欲がないのではないかと思う。映像化された興奮が感じられない、映画としての魅力に乏しい作品だ。(2006.05.21.)
Keita

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 原作の忠実な映画化という視点で見れば、よく出来ているとは思う。だが、そんなことは映画として無意味に等しく、原作の単なる要約でしかない。映画的な魅力は皆無で、活字ではなく映像で描く上での工夫がほとんどない。それに加え、原作未読の読者は置いてけぼりにするかのように物語を追うことに躍起になっている。

活字離れしている人々が多い現在、小説を映画化する上での重要なことは、いかにわかりやすく簡潔に原作のエッセンスを抽出して観客を楽しませるかだ。この映画は原作のダイジェスト版でしかないので、映画を観た上での発見は一切ない。『ダ・ヴィンチ・コード』に興味を持ったならば、原作を読むことを推奨する。

 では、何が良くなかったかというと、大きくあげて3つある。1、物語の核心を捉えた上でのストーリー展開がなされなかったこと、2、映画としての魅せるための物語の再構築がされず、ただ急ぎ足で原作を追いかけたこと、3、映像を生かさず、説明的な台詞だけで真相を語ろうとしたこと、だと思う。すべて、小説と映画がいかに違うかを物語っていた。

※  ※  ※  ※  ※

1、物語の核心を捉えた上でのストーリー展開がなされなかったこと

 原作の世界観を壊さないことは重要ではあるが、『ダ・ヴィンチ・コード』の原作のすべてを2時間半に集約することは絶対に無理だ。それは誰が考えても明らかなのだから、そこで知恵を振り絞る必要が出てくる。

まずは、原作の核心が何かを明確にする。『ダ・ヴィンチ・コード』の場合、それはソフィーがマグダラのマリアの末裔であるという部分であると思う。実際、映画でもクライマックスにその真相を明かす場面を用意はしていた。しかし、その核心部分に迫るような描写は序盤から中盤で疎かにしてしまったため、結末を見ても高揚感がないのだ。

このストーリーの主人公はロバート・ラングドンではなく、ソフィーだということを前提とし、冒頭のジャック・ソニエールが殺される場面の前に、プロローグとしてソフィーとソニエールの関係を挿入するべきだ。断片的にフラッシュバックで見せ続けても、情報量が多すぎすぎることもあり、消化できなくなってしまうのだ。

ソニエール殺害という原作とまったく同じ始まり方をしても、あまりに急ぎ足で映画が進んでいくために、そこに衝撃は生まれない。ならば、最初の段階でソフィーとソニエールの関係を描きつつ、シオン修道会について簡潔な説明をしておいた方が良かった。それによって、誰もが映画に入りやすくなったはずだ。

2、映画としての魅せるための物語の再構築がされず、ただ急ぎ足で原作を追いかけたこと

 映画は、原作でラングドンとソフィーが辿った暗号解読をまったく同じ筋書きで進めていくが、上映時間の制約がある上では、それは無駄でしかない。確かに、ソニエールが残した暗号は次から次へと繋がっていくものであるため、それを割愛することでの辻褄を合わせは骨の折れる作業ではある。

だが、この入り組んだ暗号が間違いなく映画を退屈にしていた。小説の場合はそれを読み解く楽しみがあるが、映画にした途端にそれは反復作業のようになる。しかも、映画では暗号をわかりやすく映像で解説したりといったことはせず、登場人物の間だけの理解を台詞で示すということだけで一方的に進めていった。これでは観客は暗号が解かれる楽しみなど味わえないのだ。

では、その魅力を観客も共有するためにはどうすれば良いかというと、ひとつひとつを丁寧に、めりはりをつけた描写をする必要があるが、それをやりだすと何時間映画館に居座ることになるかわからない。だったら、原作の雰囲気を残したまま、映画用に暗号を再構築する必要がある。それをストーリーとの辻褄を合わせつつ考えるのが、優れた脚本家のやることだ。

例えば、映画として考えた場合、銀行の貸金庫でのエピソードは割愛できるはずだ。せっかくルーブル美術館内での撮影をしているのだから、ルーブルでのエピソードをもう少しじっくりと描き、そこで観客の興味を引き、ルーブル館内のエピソードでクリプテックスが見つかるように脚色をしても良かった。

ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』などを見ると良くわかるのだが、映像で見るということをきっちり考慮した上で、エピソードが場所を主体にして構築されている。『ダ・ヴィンチ・コード』も、パリ、シャトー・ヴィレット、ロンドン、エディンバラと、4つの土地それぞれをひとつのエピソードで描くことで、テンポ良く簡潔に展開することができたと思う。ゆえに、ロンドンでは、テンプル教会のエピソードは割愛できただろう。

ファーシュ警部を原作どおりに黒幕候補として中途半端に思わせぶりな描写をする必要もなかったし、オプス・デイに関しても、アリンガローサは登場させずに、シラスひとりに絞った方が人物関係が明確だったかもしれない。小説の優れた映画化作品というのは、いかにシンプルにストーリーを再構築できるかだ。『ハリー・ポッター』第3作の映画版は、前2作と監督が変わったところで、長引きがちだった上映時間の短縮を目指し、大胆に原作をスリム化したことで、ものすごくテンポが良く面白い作品に仕上がった。細かなエピソードを省いたことによる原作ファンの反感は受けたが、単に映画だけで楽しませるという点では、そのぐらいの再構築は当然と言える。

3、映像を生かさず、説明的な台詞だけで真相を語ろうとしたこと

 前述したソフィーの秘密と関わることだが、原作の中でもっとも魅力的な場面のひとつに「最後の晩餐」を独特の解釈で捉え、聖杯についての秘密を明かす場面があると思う。ダ・ヴィンチの絵画を効果的に利用し、歴史や宗教の解釈もユニークであり、この解釈により議論を呼んだ部分があるのだ。映画でもその場面は上に書いたような割愛の対象となる部分ではなく、きっちり描き、中盤の肝となる場面になるべきだ。

しかし、映画において、この場面は残念ながら劇中もっとも退屈な場面のひとつに成り下がった。その理由は原作と同様に、言葉で語りすぎたからだ。その道のプロフェッショナルであるティービングとラングドンが理論詰めで語ることをただ聞かされても、疑問符が浮かぶことは避けられない。

小説は読み返せるが、映画は待ってくれない。限られた時間の中で言葉で説明することは非常に難しい。言葉だけでなく、映像として見せていることを利用し、説明を簡略化した上で、図解などを用いる必要があったのではないか。映画という表現を有効的に利用できていない悲惨な例と言える。

※  ※  ※  ※  ※

 原作は読み始めると止まらない、緊迫感のある面白い娯楽小説だが、ミステリーとしての完成度は決して高くはなく、ご都合主義的な展開も多く見受けられる。それは実にハリウッド映画的で、娯楽として読ませることに関してはすごく考えられている。『ロード・オブ・ザ・リング』や『ナルニア国物語』のように読み手の創造力を映像が凌駕しなければならない作品に比べれば、映画化はそれほど難しくないと感じていた。

それを、ロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演という最高の布陣を要しながら、単なる原作ダイジェストで終わり、娯楽映画として楽しませてくれなかったことには失望した。役者も生かせず(ポール・ベタニーは除く)、原作の娯楽映画的要素も生かせず、映画としての魅力のひとつであるロケーションも生かせず、原作ファンと原作未読者のどちらをターゲットとしているのかすら不鮮明な映画が出来上がってしまった。

ある程度予想はしていたが、これは予想以上に良くなかった。

(評価:★2)

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