[コメント] ゲド戦記(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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観始めて数分の第一印象は、「この監督は、"虚構"と言うものがずいぶんと嫌いなのだなあ」と言うことだった。
街の人々が、「魔法なんて物よりも、物を売っているんだ!」と、誇ったり、「夢を見られるよ」と、勧める薬によって、人々の意識がボロボロになったり、それはずいぶんとあからさまだ。
勝手な想像だか、監督が、心を許し、常に慰められているのは、フィクションや、ドラマ、なんぞと言うものよりも、沈みゆく夕日に照らされ空を走る雲、雲間からのぞく月の光、踏みしめて歩く土の道、耕した畑から立ち上る土の香り、鋤をひいて手に出来る血の豆、「ごちそうさま」と、丁寧に言って、立ち上がり、椀を自分で洗う行為、見知らぬ街の市場の人いきれ。
羊の子供(アンチユキちゃん)も、少女がゲドに飛びつくシーンも(アンチナウシカとユパ)、少年と少女が、高い城の壁伝いに逃走するシーン(アンチ・・・・・・・・)も、頑ななまでに、微塵も「けれんみ」のない動きと演出で、あくまでも「リアリティ」を追求している。
攫われたアレンの名を叫ぶ少女の声よりも、その直後の「たなびく葦の原」の動きの方に数倍もの「心」がこもっている。
おしなべて登場人物には、感情はあるが、心が込められていない未熟さはある。心こそが現実を超える「フィクションの真髄」なのだから仕方がない。
「歌のシーンだけがいい」と言う言葉はよく聞いていた。それはきっと、歌のシーンはドラマシーンではないからだろう。そこには、監督は心が込められたのだ。
しかし、それでいながら、監督はじわじわと、逃げても逃げても「自分自身を晒さなければいられない」フィクションの恐ろしさに、絡めとられていく。
そこまで行ける、それが出来るのも、才能あってのことだとは思う、が、さあそれでどうする?
毎日のリアルな生活の息抜きに、「フィクション」を見に来た観客には飛んだとばっちりだが(例えて言うなら、蕎麦屋で蕎麦を注文したら、スニーカーが出てきたようなもの(ちょっと違うな、上手い例えを考えておく)で、怒りはもっともだ)、彼の次回作はやはり楽しみである。
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