コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ゆれる(2006/日)

罪とは何を犯したことをいうのか?を、サスペンスに織り込んで問う、イーストエンドのカインとアベル。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







自分の関わっていないところでは、世の中にはしっかりしていて欲しい。そう考えるのは、より自由に、より無責任に生きようとする人間に共通の感覚なのではないだろうか。皆が皆私のようでいては困るから、と。弟はその負を兄におしつけてきたこと、そして兄はそれを引き受ける約束を(自分に、もしくは世界に)しておきながら、それを裏切ったこと。この作品で2人の兄弟が贖わなければならないと思っている罪の本質はそこにあって、それは法律や社会的規範といったものはもとより、「智恵子の死」に対してですらない。

私は釣り橋にいる弟のところに行くから怖くて登れないあなたは川原で待っていなさい、と性的不能を宣告され、思わず後から必死に追いかけて女にすがらずにはおれない兄。女にとってしがみついてくるものは、男である以上に田舎での冴えない生活や冒険できなかった過去の自分の忌まわしい姿。というような重層的な意味を釣り橋のシークエンスひとつでやすやすと語ってしまうこれぞ映画というような場面に引き込まれる。「兄が女を突き落とした」のか、「兄は落下しようとする女を助けようとしたのか」法律で問われる罪はそこなのだろうが、ここで裁かれるべきは、女が生理的な拒絶という名目の中に「自分の清算」をしのばせていたり、助けようと(それが事実ならばだが)彼女に近づこうとする兄の中にあった、いみじくも検事が指摘した「一片の殺意」という欺瞞なのだ。弟が目撃し、兄が裁いて欲しかったのは、そこに起こった事象ではなくそこにあった心象なのだ。

目撃をし、瞬時に弟の中に沸き起こった「兄の救済」による「自己の救済」という図式。後で述べるが、弟が橋で兄を抱きかかえた時、すぐさまとった少し妙な行動は、兄の腕についた彼女の爪痕らしき傷を確認しそれを袖で隠すという行為である。その傷こそ兄の殺人を反証するもので、その存在を「確認」したのだ。それこそが今後の「救済」という自分の行動の根拠だからである。自分を助けようと奔走する弟の姿に、「自分(弟)のための救済」をすぐさま見抜いた兄は、最初弟にツバするが、やがては弟がそうした行為をすることも智恵子が死んだのもすべて自らが自分に、もしくは世界に対して引き受けてきたこと、という考えに還流していって冷静になっていったように思う。

「いつも人というものを疑っているのがお前の本質だ」などといってみたところで、「彼女が下戸」と知っているのか?とカマをかけ、弟と智恵子のその晩の行動を疑った自分を嘲笑い、自分が、何を聖人のごとく振舞っていたのかと思うに至り、気取ることをやめたことで現世に執着が生まれ助かりたいと思うようになった。俺はお前が思っているような立派な人間じゃないよ、お前だって同じだろう?というがごとく「お前は人殺しの兄を持ちたくないだけだよ」という、いささか見当はずれで卑近な例を口に出したのは、手っ取り早く俗物性を獲得するためであって、弟が許さなかったのは、生きたいために嘘をつく兄の見苦しさや、自分の本音を言い当てられたなどということは断じてなく(自由人たる自分が「犯罪者の兄を持つ」ことに対する体面などに窮しないことぐらい2人ともわかりきっているわけだ)、「しっかりしていて欲しい」という自分以外の世界が崩されようとしていくことだったのだろう。裁判で「兄は人を殺した」と証言する弟を見る兄の表情は、弟が結局は「世界の崩壊」を批難することで自分を擁護するという態度から一歩も出なかったという諦めと、同時に自分が裁かれるということで自分を貶めずにすんだというほっとした気持ちの両方の現われだったと思う。

さて、この作品はあれが事故なのか殺人なのかを明確にしない。「明確にしない」というところには、明確に監督の意図があると思う。テーマ的に言えば「罪の本質とは何か」であって、実際に橋の上で兄が女に対して憎しみの心を持った以上、実際に突き落とそうが、助けようとしようが、それははっきりさせる必要がない、本質的に同質であるから、あえて曖昧にしたのだということかも知れないと思った。しかしその考えがいささか観念的過ぎているような気がするのだ。

監督が意識していたかどうかわからないが、この話は旧約聖書に出てくるカインとアベルの話と似たような印象を感じる。農耕人の兄カインは、神(天)が自分よりも遊牧民の弟アベルを可愛がっている、と弟に嫉妬しそのうえで弟を殺害してしまうのだ。この話と本作に関係があるかどうかはわからない、が、監督が罪の本質をあまりに「天に対してのもの」と観念的に見做したことによって、事故か殺人かなどは枝葉のことに過ぎないとしてしまっているように思うのだ。でも、観客からすれば、あれが事故で弟が事実無根のいいがかりで兄を刑務所にぶちこんだのか、やっぱり殺人であって真意はどこにあれ兄をかばおうとしていた、のかでは、まるで受ける印象が変わってくるではないか。これは絶対失敗だと思う。

やはり、弟は「ことの一部始終を見ていて」、実際橋から投げ落としたのか、じりじり迫って落ちるようにしむけたのか、いずれにしても「殺人」であるということは確信した上で、そう証言しているのだと思う。でなければ、偽証で無実の兄を殺人犯にした上で自分は7年も日常を過ごし、出所の出迎えに行ったが結局会えなかったときに「もう、いいんだよ」というわけにはいくらなんでもいかないだろう。たまたま昔の8ミリを見返して「殺人ではなかった」と気づいたのではなく、兄が俺や世界に対して優しかったことこそが、兄がごまかそうとしてしまおうとしたことよりも、ずっと世の中に対して明らかにされなければいけない真実だったのだ、と思うに至ったのだ、というのでなければあまりにも自己完結すぎる。弟の罪の本質たる自己憐憫を明らかにするというのが本作のテーマだとすれば、そのテーマにはそぐわないということになる。一体監督が何を言いたかったのかわからなくなる。

さて、ここで、何かヒントとして監督が仕掛けているような感じが匂うのが「兄の腕の傷」なのである。ラストの8ミリを見たときに印象的に回想されるし、最初に弟が兄のそばに寄って確認しているのがそれである。あれは兄が彼女を救おうとしたかなり有効な証明になるのであるが、精液と違って女の爪の先から兄の皮膚の細胞は検出されなかったのだろうか、そもそも確認されようとしたのだろうか、なぜか法廷ではおろか誰からも一切語られない。

あれ、実は無かったのではないか、というのが私の感想なのだ。弟の当初のそうあってほしいとの思い、そして「本当の兄はそうであった」ということを世界に対して知らしめるべきだ、という思いからくる幻想の聖痕だったのだ、といったら考えすぎか。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)カルヤ[*] kiona[*] ishou[*] ぽんしゅう[*] TOMIMORI[*] 林田乃丞[*] イライザー7[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。