[コメント] 紙屋悦子の青春(2006/日)
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『キリシマ』と同様、戦中の市民の生活を、戦後的な思想による後付けを排除し、可能な限り客観的に描こうと意図された作品だろう。黒木監督は終戦時14歳。15年戦争にどっぷり浸かった年代であり、軍国少年振りは『キリシマ』に顕著だが本作も同様の切り口である。直ちに引っかかるのは、両作とも、軍部と近しい人々を扱っていることだ。彼等は特殊であり、庶民一般に敷衍させることはできないだろう。
小林秀雄は、戦後は不安の時代であり、戦前の悲劇は無くなってしまったと嘆いたものだったが、その意味で本作は悲劇である。登場人物は戦国時代の物語のように自らの運命に殉ずる。原田知世の挙動から私が受け取るのは、青春を棒に振った気の毒な娘という厭戦感では全然なく、平家物語の登場人物のように運命を全うした「充実した人生」の印象である。
しかしそれは、戦中思想を相対化することができなかった人々の滑稽ではないのか。この点、原田一家が核家族なのは周到というべきで、大正デモクラシーを知っている中年の家族がいれば状況は全然違っただろう。そうでないから、この家族の思想は吉本隆明ばりの「当時は何も知りませんでした」という虚構が純化されている。原田の「敵艦やっつけて」などという惜別の発言を、惨めなものだと相対化する機縁が本作にはほとんどない。辛うじて本上まなみのラッキョウを普通に食べたいという会話にあるだけな訳で、この程度なら戦前の情報局映画だって幾らでも出てくる(もちろん見逃さずに非難される)。木下の『陸軍』で田中絹代は行軍を人情で塗り潰したが、本作の原田はそのような破綻など見せず、ひとり涙にくれるだけで淡々と義理という悲劇に殉ずる。
結果、私などには北朝鮮の軍寄りの市民もこんなものなのだろうなあという印象が残る。彼等も涙隠して敵を打つ「高貴さ」を備えているだろうがそれを褒め称えてどうなるか。相対化抜きで彼等を鎮魂するのは正当か、私には疑問だ。平家物語の昔ではないのである。
演出はワンシーンの掘り下げを旨とした演劇調のもので(小津的なリズムは皆無)、原田・永瀬正敏の見合いのユーモアはいいものだが、ふたりの病院の屋上の件は酷い。老け役がまるで老けておらず学芸会レベルで、過去の名優と比べるとお粗末に過ぎるし、撮影もそれに見合って凡庸だ。また、このワンシークエンスの長尺編集を一貫したために細かな前振りが省かれてしまい、原田の松岡俊介への想いがどのようなものであったの不明で肝心の処を具体的にしてくれない。肝となるべき「波の音」とは何なのか朦朧としてよく判らないのも弱い。海上の戦地と人生の荒波を表している位だとすればえらくレベルの低い詩作ではないか。
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