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[コメント] 太陽(2005/露=伊=仏=スイス)

現人神とされ世間から隔離された男の奇妙な感覚のズレと、人間として当然持ち得ている感情のユーモラスな発露をイッセー尾形は見事に演じきった。桃井の醸し出す茫洋さも、なるほどあの男の妻とは、こんな女だったのかも知れないと感じさせる説得力があった。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







天皇、皇后のそっくりさん的風貌と好演はもちろん、侍従長(佐野史郎)や連合国指令長官とのユーモラスかつスリリングな会話劇は、1945年、後半の半年間の皇室を除き見る心地よい錯覚を与え続けてくれる。そして、終焉に飛び出す「人間宣言を収録した若い録音技師」・・・・?。一瞬、何のことだか分からなかった。

そんな、男は存在しないはずだ。そうだ、これはフィクションだった。ある日を境に、神から人間となった男の思いと苦悩を描いた作り話だ。ならば、そのつもりで考え直して見よう。アレクサンドル・ソクーロフも、そのつもりのはずだ。すると、このドラマの決定的な線の細さと厚みのなさが見えてくる。

それは、例えば天皇を取り巻く人間たちの不在だろう。神という権力に群がり、今となっては敗者として失墜した多くの日本人たちと、最高権力者である神と呼ばれる男の処遇を思慮する勝者としての人間たちの戸惑い。その二者間の軋轢があってこそ、神か人間かの間を行き来する男の苦悩が浮かび上がるのではないか。

あるいは、死や滅亡に対する恐怖の欠落。神などではないことを自覚しつつ、神で在り続け自らの命を捧げることが国の滅亡を阻止することなのか、自分を神だと信じて傷を負い続けた国民を裏切ってでも、人間となって国民の中に身を挺することが日本の幸福につながるのかという、「肉体の死」と「精神の死」という課題があってこそ「人間」を選択するというテーマに意味が生じるのだと思う。

おそらくソクーロフは、作品が政治的な意味を持つことを嫌いあえてこの要素を映画に持ち込むことを避けたのだろう。しかし、政治的恣意性を避けつつ神から人間に生まれ変わる男の苦悩を描くことはいくらでも可能だったはずだと思う。その逃げともとられかねないソクーロフの臆病さが、決定的なフラストレーションとして私の中に残っている。

劇中で天皇が皇太子に宛てて綴る手紙。それは、私には遺書だと思えた。父から子に贈られる最期の言葉は、はたして神の言葉で綴られた人間としての心情だったのか、神としての託宣が人間の言葉として綴られ遺言となったのか。何も語られておらず、何も見えなかった。見えたのは、薄霧のような美しさではあるが、幾重にも重なった紗のようでもある曖昧な舞台で熱演する芸達者な役者たちだけだった。

(評価:★3)

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