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[コメント] 蟻の兵隊(2005/日)

 勝負なき“ドキュメンタリー映画”。(ここで語られる内容は非常に重い。ただ、これを“映画で”やる意味はあるのか?)
にくじゃが

 ああ日本はまだあの戦争についてきちんと整理し切れていないのか、まだ逃げいているのか、などなどいろいろ感じ入ることはあった。しかし、本作『蟻の兵隊』は、ドキュメンタリー映画として、決して良いできではない。カメラの向こうにすばらしい対象がいる。命をかけて(まだ戦争の記憶が残る村を、謝罪が目的ではなく訪れる日本人というのは… しかもあの高齢!)、事実を明らかにし真実を探す奥村和一氏がいる。しかしカメラはそれを撮すだけだ。

 この監督はこの映画を撮っていくにあたってどんなことを考えたんだろう? この映画の監督は、奥村氏の思いをどのぐらい共有し、彼の思いとどのぐらい離れていたのだろう? 

 それを明らかにするには対象との真剣勝負が必要だ。打てば響く、斬ったら血の出る目の前の対象。戦いは時間もかかるし危険も伴う。でも、ドキュメンタリー映画において、カメラは監督の目なんだ。観客はその目を通して対象に触れる。だからその目に勝負を辞さない強い意志を持って欲しい。そして観客をその目線に持って行くための努力、その人の人となりを明らかにするような当たり前の質問とかを怠らないで欲しい。

 中国メディアからの質問を遮ろうとするスタッフ。この映画は真剣勝負を避けている。きちんと対象への問いかけがなされていたか? この奥村氏は、私にとって知らない人だ。だからこそ、その詳しい人となりを浮かび上がらせてほしい。氏の言葉はそのままでも重く強いが、この映画が最初から最後まで真剣勝負をやっていたのなら、その強さをより感じられたんじゃないか。奥村氏が高齢だということで遠慮でもあるのか? でも、中国での強姦について臆することなく答えてくれた奥村氏なら、一本の映画撮るということ、質問の嵐の中、最終ラウンドまで戦い抜けたはずだ。そして、最後まで真剣勝負をやり通すことは、相手に敬意を示すことになるんじゃなかしら。そしてそんな敬意は、遠慮なんかより、映画の品を上げてくれるはずだ。

(強姦されたという女性が、もうすぎたことだと語るシーンは何のために挿入されたのだろう? この映画で奥村氏が終始求めていたのは彼女の許しではないと思うのだけれども。もちろん彼女の言葉が奥村氏に何も与えなかったとは思わないが、それが何なのか、そしてそれがこの映画全体にどんな意味を持つのか、カメラはうつしだしていただろうか? なんかこう、許される感じなのは希望があって良いよねぇとか言うつもりなら怒るよ?)

(撮影段階では、某大学の学生たちとの討論もあったとのこと。冒頭に靖国神社でピクニックする人たちとの語らいを入れるくらいなら、その討論会を入れた方が、奥村氏の人となりも事件に対する一般人の見方も鮮明になったと思うけれども。多少長くなろうともかまうもんか。)

 この映画は、告発することに意味を見いだしているのかもしれない。でも、私にとってそういうのはいいドキュメンタリー“映画”とは思えないんだ。新聞でも本でもテレビでもなく、映画。映画は監督のもの。映画において監督の名前は、撮される対象と戦い抜いた証拠として、そこに輝くのだから。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)sndtsk

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