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[コメント] 手紙(2006/日)

マジな話、中盤の沢尻エリカが蒼井そらに見えてどうしようもなかった。つまりは、この監督は基本的に役者を信用してないんじゃなかろうか。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







※原作未読です。

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 沢尻が蒼井そらに見えるというのは相当マズイ状態で、というのも、AV女優ってヤツは衣装もメイクも髪型も、世の男衆に「ヤリたい」と思わせるためだけに研究し尽くされたセックスアピールの権化なのである。つまりは「ナマ」の人間性をできるだけ排除し、過剰にイメージ化された存在なのだ。あのニワカ仕込みの関西弁もしかりで、この監督は人物キャラクターの造形をイメージに頼りすぎているのである。チャラい化粧して関西弁しゃべらせるだけで「ケナゲな元気娘」の一丁あがりというわけだ。

 その対極のキャラクターとして設定された吹石はもっとひどくて、白いワンピースだけ着せておいてあとは自分のキャラクター設定を全部セリフで説明している。それに、風間パパの住んでる家も彼の考え方も、つっけんどんなお手伝いさんも、今じゃテレビのコント番組でも見られないようなステレオタイプのイメージだけが押し付けられている。吹石の婚約者なんて「親が決めたイイナズケ」という記号そのもので、もう失笑モノである。

 こうした過剰な記号化・イメージ化の作業は人物キャラクターだけに処されているわけではない。冒頭、主人公は「家電のリサイクル工場」で働いている設定だが、その工場には貨物軌道が走りパイプが這い回っている。煙突からは白い工業煙がモクモクと立ち昇り、蒸留塔にフレアスタック。丸っきり化学コンビナートなのである。そんな工場に中古の洗濯機や冷蔵庫を持ち込んでいったい彼らは何をするつもりなのか。要するに「誰がどう見ても工場だ」というイメージだけを優先させて、彼らの「生活」を描くことを怠っているのだ。これは手抜きだ。映画監督なら、工場らしいシーンをつくりたいなら、田中要次らの工場労働者にその生活を背負わせて「人間」で描くべきだ。

 工場にしても金持ちにしても、この監督は「しょせん役者の演技なんて景色には勝てない」と最初から決め付けてるのである。そんな監督に魅力的な人間なんて描けるわけがない。魅力的な人間を描こうとしない監督に、魅力的な映画が作れるわけがない。この監督の本性があのエンディング曲に顕著で、テレビのCMで散々イメージが固定化された楽曲を拝借している。もうこの映画をこの人が撮る必要性を自ら放棄しているのだ。

 ストーリーだけ思い返せば、もっともっと泣ける物語だったはずだ。ラスト10分だけなら迷うことなく5点入れたい映画だ。だがスクリーンは世のあらゆる手垢という手垢に塗れていて、とてもじゃないが映画に入り込むことができなかった。

 映画は数学じゃない。映画を撮るなら、自分が生身の役者を使ってるってことを自覚して、少なくともこのスタッフ・キャストでしか撮れない映画を撮る努力をすべきだ。それが志ってもんだろ。

(評価:★3)

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