[コメント] トゥモロー・ワールド(2006/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画の売りは長回しの場面である。長回しの場面は主に四つ。冒頭のテロの場面、車が襲撃される一連のシークエンス、そしてワンシーンワンカットの赤ちゃんの出産場面、最後に赤ちゃん奪還のクライマックスである。だが私は、これらの場面の衝撃に感嘆したものの、正直あまり好きにはなれなかった。それは長回しのアクションや、CGによる赤ちゃんの出産シーンが、作り手のテクニック自慢による自己満足の産物のように思えてしまい、そこに長回しで見せる必然性を見出すことができなかったからだ。
特に出産シーンは「CGの赤ちゃん見せられて感動しろと言われてもなあ・・・」と斜に構えた見方しかできず否定的に捉えていた。かつて『アレックス』において描かれたCGチ○ポと同等のモノを感じていたからだ。果たしてここまで見せる必要はあったのかと。だが、何回か観ているとある事に気がついた。この出産シーンはある場面と呼応しており、その場面のためにはどうしても赤ちゃんの産まれる瞬間を見せる必然があったのだ。
それはクライマックスの戦闘場面の後、主人公たちが狭い水路を脱けて海へ出る場面である。この場面を観念的なイメージで思い描いてほしい。するとこの場面は「赤ちゃんが子宮を通って、体内から外へ出ていく」というイメージに重なりはしないだろうか。だとすれば、それまでの主人公たちは子宮の中にいる「胎児」のような存在であり、外の世界へ出ることで初めて「人間」としての生を受けた、という見方ができるのだ。
そこで私は「胎児」というイメージを念頭に映画を振り返ってみた。まずは冒頭のテロの場面、主人公は狭いカフェから外へ出たことで命拾いする。この場面も、カフェという空間は子宮の中、そこから出た主人公は生を受けた人間というイメージで一致する。またこの映画には、全体を通して狭い空間の描写がやたらと多い。車の中や、バスや電車の中、さらに建物の中(勤め先や大臣の家)や、フェンスに囲まれた場所など、それらはどれも人間が狭い空間の中にいて、外部から遮断された環境にいることを印象づけるが、これも胎児が子宮の中にいるイメージとして捉えると、納得がいくのではないだろうか。
では「胎児」とは何なのか。それは狭く閉じた空間の中にいる「まだ人間になってない存在」である。つまりこの映画の中に描かれているように、フェンスを設けて他者を排除し、自分たちだけの世界に固執する姿を「胎児」のイメージで表現したのではなかろうか。「胎児」が「まだ人間になってない存在」であるなら、胎児のように閉じこもる人間も、真の意味での「人間」とは言えないのだ。人間が生まれるということは、狭い世界から抜け出して、自分を覆っていた壁を取り払うことなのだ。だとすれば、子供が生まれないという状況も、「人類が胎児のように、自分たちだけの狭い世界に閉じこもっている限り、新たな希望は生まれない」という辛辣なメッセージとして受け取れる。我々は自分を覆っている壁を取り除くことができたとき、真の意味で「人間」として誕生したと言えるのだ。そこで初めて我々は、人間として生を受けたばかりの「人類の子供たち」としての資格を得られるのではないだろうか。
ジュリアン、ジャスパー、ミリアム、マリカ、そしてセオ、彼らは赤ちゃんと母親の命を守るために散っていった。彼らは窮地にあっても決して武器を持とうとはしなかった。武器は敵を排除するためのものであり、それを持つということは、自らを壁で覆う行為に等しく、彼らが武器を持たないのも、彼ら自身が心に壁を持たない「人間」であることを証明していた。彼らは銃を持った者に丸腰で対峙し、体を張って子供を守ろうとする。そんな彼らはまるで赤子のごとく無力であり、全員が武器の前に命を落とす。(ミリアムとマリカが死ぬ場面はないが、おそらく助からなかったと見るべきだろう)だがそんな力を持たない彼らの姿が、銃を持つ者の誰よりも強く、そして気高く感じられるのは、彼らが心に壁を持たない「人間」の崇高さゆえなのだ。そしてそんな「人間」だからこそ、彼らは「明日」に希望をつなぐことができたのだ。
一部始終を見てきたキーと赤ちゃんは間違いなく、心に壁を持たない「人類の子供たち」になるだろう。そしてそんな「子供たち」を育てるには、閉鎖的な環境の狭い世界ではなく、壁のない広い世界が必要であり、それを示したのがラストシーンの海なのだ。海には人を隔てる壁はない。たとえ霧の中であろうとも、勇気を出して壁を取り払えば、きっとそこには新たな光が見えてくる、そんなことをラストシーンは訴えているのだ。この映画は、そんな「人類の子供たち」が外の世界へと生まれ出るまでの苦難の道のりを描いている。映画の中に描かれる数々の痛みを伴うような映像はすべて陣痛であり、産みの苦しみを体現した演出だったのではないだろうか。
そう考えると、この映画の長回しも産みの苦しみの一つであったと言えるだろう。そこには混沌とした現実世界の状況をなんとか変えたいという作り手の意識が感じられる。だが、我々の意識を変えることは生半可なことでは実現できない。いくら声高に叫んでみても、それだけでは人に伝わるものでもないからだ。そこで作り手は、困難を伴う苦行のような撮影を自らに課し、それに苦しみ、乗り越えることで観客に自分の思いを伝えようとしたのではないだろうか。それには、かつてタルコフスキー監督が『ノスタルジア』において、蝋燭の火を消さずに広場をわたりきる場面を撮ったように、作り手の「祈り」にも似た真摯な姿勢が感じられる。そんな監督の思いがあるからこそ、この映画は単なるSFアクションの枠を越えた、荘厳さすら感じさせる映画として、我々の心に染み渡ってくるのだ。我々もまた、自分だけの狭い世界から外の世界へ出なければ新たな希望は生まれないのかもしれない。それには産みの苦しみが伴うだろう。だがその苦しみを経たからこそ、誕生の喜びがあるとこの映画は教えてくれるのだ。(2007.8.13)
余談だが、この映画のラストシーンに出てくるトゥモロー号の乗務員が着ている「黄色いカッパ」はアンゲロプロスへのオマージュ。
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