[コメント] それでもボクはやってない(2007/日)
冒頭とラストで長々と字幕が入る。物語を映像で紡ぐ形式を与えられた映画というメディアで、これは敗北。それに気づかない愚かしさがまずある。自分の撮り上げた映像群だけでは、メッセージが伝わったか心許ないという、自信の無さの表れだ。言葉を継ぎ足すことで何とかしよう、何とかできるという思いは、傲慢でもある。自信の無さが虚勢を張ることに転じた愚かしさだ。観客に解釈を委ねられないのだから、潔さにも欠ける。
ところで私がこの作品から(字幕なしだった場合)受け取ったメッセージは、字幕の訴え(疑わしきは被告人の利益に!)とはまったく別だった。目の前の生身の人間と向き合えない、われわれ一人一人に潜む弱さについて描いた映画。青年の嫌疑を晴らそうと証言しにきた女性客の目の前で、引き戸をピシャリと閉ざしてしまう駅員。新たな情報が入ることで、何度も手掛けてきたケースを外れ、自分の問題処理能力を超えてしまうことを恐れたものと見えた。あるいは、実際に何が起こったかを究明するのではなく、すでに提出された材料から、落とし込みやすい判例に落とし込むことしか考えてないように見えた裁判官。未知の領域に踏み込む危険を冒さず、安易に自らの権威が保てる道を選んだと見えた。そして拘置所は、人の尊厳をたやすく奪う。まだ犯罪者と決まったわけでもないのに、自由は奪われ、人格は剥奪され、昔の兵隊映画でも見てるみたいに人は材木か何かのように扱われる。いくらこちらが看守の人格を尊重しても、看守がこちらの人格を尊重することは無い。一番辛いのは、これは今まで自分が外部に対して行なってきた仕打ちが、凝縮されて跳ね返ってきてるのではないかと思うと、何も言い返せなくなってしまうことだ。もしかしたらわれわれの社会は、その内に非人間性をも織り込まないと成立し得ないものになってしまったのか?
まさに社会のこういう状況が、痴漢という犯罪の温床だ。
こういうことを提示し得た周防正行という映画作家の感性は最大限に評価する。だが現時点での結論は、やっぱり字幕は要らない、だ。
80/100(07/11/25記)
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