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[コメント] 秒速5センチメートル(2007/日)

「どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感ずるものである。滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。人を食った告白なんぞ実生活では、何んの役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何んの役にも立たない。」

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







このアニメーション映画の中で主人公が呟き続けるところの過剰な独白、言い換えれば私秘的な告白は、一体誰から誰へと向けられた告白なのか。それは勿論、自分から自分への告白なのであろう。しかしこの行くあてのない告白は、それ自体が自意識の牢獄を形成する罠でこそあって、そんな告白を呟き続けることが、まさに自分で自分を呪縛し続ける罠そのものなのだが、この映画はそれに自覚を抱くこともなく、さもそれこそが世界を感受する心の繊細で率直な告白であるかの如き思い違いのままにそれを綴り続ける。それは端的に言って、映像を抑圧している。アニメーション映画と云えども、それが映画であるならば、映像は実在の仮象として実在の輪郭をこそなぞろうとするべきであり、つまりは描き出す(映し出す)具象によってこそ物語ならば物語を表現しようとするべきなのだと思うのだが、しかしこの映画は、過剰な独白が全篇を抑圧的に覆い尽くし、言わば映像がほとんど窒息している。映像はどれだけアニメーション映画として美麗で流麗な美術を描き出そうとも、その内容の全てが過剰な独白に塗り込められてしまうが為に、情景としての尊厳(自由)を獲得し得ず、単なる皮相な心象投影の風景に堕してしまう。一言で言えば、それは絵解きに過ぎない。絵解きの絵をどれだけ美麗に流麗に粉飾しようとも、それは粉飾に過ぎないだろう。

そして告白は、人を食った告白でなければならない。人を食った告白とは、つまりそれが虚構であるという自意識のうえで、嘘八百として為されるところの告白である。だがこの映画の告白は、まるでそれが真実であるかのごとき思い違いのままに綴られ続ける。あたかも人が孤独に「意識」と呼ばれる虚構の中で何事かを呟いているなどという錯覚を錯覚ならぬ事実として考えているかのように、それは綴られ続ける。人はしかし、人間として自分自身にもそれ程自明に了解し得る存在であろうか。人が自己と他者との狭間に存在する人間として実存する時、言葉はどこまでも自己と他者との狭間にしか存在しない筈なのである。だからこそ、告白は人を食った告白でなければならない。勿論自分から自分へ向けて告白するのもいい。しかしそれを所詮は虚構に過ぎないという自意識も介さずに弄し続けることは、あきらかに倒錯でしかない。自分から自分へ向けて告白し続け、あまつさえそれに疑問を抱かぬことは、自意識のうえに虚構を真実と思いこむような閉塞を齎すだろう。そこでは自己は他者へとは決して開かれず、自意識の牢獄に囚われ続ける心理的現実をしか帰結しない。

このアニメーション映画では、主人公であろう男性キャラクターの声は、少年期から青年期を経て成年に至るまで、一貫して水橋研二が当てている。如何にも少年らしい未成熟さを遺した水橋研二の声音は、成年に至っても未だに少年期の幻想に囚われ続ける未成熟さを象徴するようにその声を演じ続ける。彼の想い人であるところの女性の声は、少女時代と成年時代とで異なる声優が声を当てているのに、水橋研二については一貫してそのままにしたのは、恐らくは自覚的な演出ではあったのだろう。だがしかし、そのようなものを殊更に表現することの意味とは一体何なのか。それがこの作家の表現したいものなのだと言われれば、なんとも言いようもないようにも思えるが、あまりにも自己完結し過ぎてはいないか。そしてそれは耽美的に粉飾されて、言わば小宇宙を形成するようにして閉塞する。そこに描き出される風景は、耽美的リアリズムとでも呼ぶべき何かではあっても、決してリアルそのものとして私達観客を世界に向かって解放してはくれない。ラストの「One more time,One more chance」が歌いあげられるパートは、あるいは自意識が世界に向かって解放される瞬間として描き出したかったのかも知れないが、しかしまさにそこに歌という言語的な媒体が重ねあわされてしまっていることで、再び映像は抑圧されているように、自分には感じられる。

如何にも日本的なセンチメンタリズム。それはつまり、地に足着けた世界に向かって自意識が開かれていないということ。自意識内の心象投影でしか世界を見遣ることが出来ず、五体のリアルで以て世界と関係していないということ。…ではないだろうか。文学…、などと言うよりは、正直ケータイ小説的な、あるいはミュージッククリップ的な皮相を感じさせてしまうこの映画のセンチメンタリズムは、離人症的に世界と隔絶し続ける閉塞の中で、“イノセンスな自己”という幻想を担保に、そこにあり続けようとする。男が男を主人公に描く少女マンガ(…)。

「優れた作品はみな人を食っている、どんなにおとなしく見える作品でも人はちゃんと食っている。そこには人世から一歩すさった眼があるのだ。しばらく人間を廃業した眼があるのだ。作品の現実とはいつも象徴の現実である。」

なんというか、もしこの作品が女の子であったのなら、自分はこの女の子には惚れることは出来ない。何故なら「君が愛してるのは君自身…」だから。

(評価:★3)

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