コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] バベル(2006/仏=米=メキシコ)

巧みな脚本、演出、編集で、時間と地平を操りながら143分間、延々繰り広げられる人々の苦渋と焦燥は、とりとめなく拡散し続け収拾を見ない。死の問題は放置され、他方で唐突に誕生が示される。しかし、この混沌と迷走こそが人間を真摯に描こうとした証なのだ。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







自分の身に置き換えて想像してみればすぐに分かることだが、悪意に満ちた言動がもとで引き起こされる人間関係のトラブルは案外少ない。その原因を冷静に観察してみれば、自分の、あるいは他者の意識せざる言動が、また時には相手のために良かれと思い為された行為ですら、その本意に反してトラブルの原因となっていることのほうが多い。それを、人はコミュニケーション不全と呼ぶ。

一見、これは言葉の問題のように思われる。確かに思想や愛情を伝える最も便利な手段は言葉だろう。しかし、言葉はあくまでもコミュニケーションの手段のひとつでしかない。例えば、人種や地域に根ざした肌の色、生活様式、宗教観、死生観といった巨視的な差異。あるいは、世代や個々人の性格の違いが生む社会観、人生観、家族観、男女観といった日常的な差異は、この世に必然的に存在する。

この差異は、自らが望もうが望むまいが、そこに人間が存在するだけで、他人に対してある種の情報を発信しコミュニケーションを勝手に開始している。人間の存在そのものが、すでに疎通を欠いた没コミュニケーション状態のなかにあるということだ。言葉とは、確かに差異を埋める一助ではあるが、またそれぞれの文化のなかで育まれ、差異を拡大してきた元凶でもあるのだ。

コミュニケーションとは、言葉が互いに通じる、意味が理解できるといった問題だけでなく、人間の存在そのものを包括した相互理解のことであり、その風通しの悪さに苦慮するのはある意味で人間の定めだと言えよう。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥギジェルモ・アリアガは、懸命にその問題にまで手を伸ばそうとしているように見えた。だから映画「バベル」は、ある種の不快さと混沌の中を彷徨い続けている。

例えば、物語の奥に埋め込まれた幸福の対価としての不幸。すなわち家庭をめぐる予期せぬ三つの「死」の問題だ。アメリカの平凡な中流家庭を思わせる夫婦(ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット)を襲った生まれて間もない次男の突然死。富と名声を余すところなく手に入れたであろう日本の父娘(役所広司/菊池凛子)が遭遇した妻の自殺。この二つの家族のコミュニケーション不全は、いずれも「死」が招いた喪失感によって引き起こされ露呈した。

そして、モロッコの羊飼い一家を巻き込んだ長男の死。この一家を襲った喪失は、悪意がなかったとはいえ次男の無知と幼さが遠因なだけに傷が深い。残された家族に生じるわだかまりは絶望的だ。悪意なき出来事が招いた人間(家族)関係のトラブル(齟齬)。「死」による欠落感は、私の知る限りやり過ごす時間の長さでしか癒すことができない。しかし、羊飼い一家の「喪失」は時間の長さで解決できるとは思えない。

これは、もうコミュニケーションの問題などではない。この決して裕福とはいえない家族が、やがて陥る機能不全を想像すると不快でたまらない。そして、A・G・イニャリトゥとG・アリアガは、この問題を放置せざるを得なかった。それはそれで、二人の作家の真摯な態度だったのだと思う。分からないことは判らない、不可能なことは出来ないのだから。

その対極で、いささか乱暴ではあるが一つの「誕生」がこの映画では描かれている。「本物のバケモノを見せてやる」と毒づき、幼い性を彷徨い続ける聾唖の女子高生チエコ(菊地凛子)だ。突如、母の自殺で母性という盾を失ったチエコは、いつの間にか彼方に離れ去っていた父を自らの元に引き寄せようとあがく。しかし、彼女は、その未成熟な性意識によって父性と男性の区別もつかぬまま唐突な行動へと突き進む。

歯科医や刑事にとった、甘えと好奇心の入り混じった性の発露は、まぎれもなく父性と男性の混同の発露であり彼女の混沌そのものであった。しかし、男たちに拒絶され続けた後、全裸で刑事にすがりつきながら泣きじゃくるチエコは最早女ではなかった。その時、チエコの全裸の意味は誘惑者のそれから、生まれたばかりの新生児としの全裸へと変貌していた。

全ての事件の発端となった裕福な狩人が住む東京のバベルの塔の頂上に、A・G・イニャリトゥとG・アリアガは、全ての事象のやり直しと再生の象徴として新生児チエコを誕生させたのだ。東京も、モロッコも、アメリカも、メキシコも、実は同じ地平の上に点在しているひとくくりの場でしかないのだ。だからコミュニケーションとは、言葉の問題ではなく、人間の存在そのものを包括した相互理解の問題なのだ。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (12 人)irodori ExproZombiCreator 煽尼采[*] ジェリー[*] 牛乳瓶 サイモン64[*] [*] けにろん[*] Lostie[*] セント[*] デナ

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。