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[コメント] バベル(2006/仏=米=メキシコ)

平坦で、奥行きが無く、ただ出来事の連鎖が並列されているだけ。だが、その事で却って、距離を挟んだ場所同士が一つの平面で繋がっている事を感じさせる。個々の出来事の関連性が最低限に抑えられているのが、この映画の美点だろう。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







チエコの父、ヤスジロウが、親切なガイドに友情の証しとして一丁の銃を贈った事が、まるでビリアードのキューの一突きのように、全く異なった場所で、全く異なった諸々の出来事を、次々に引き起こしていく。善意が悲劇を呼び、悲劇が出逢いを生む。因果応報も信賞必罰も無い世界。正にこの世の現実だろう。

バスを狙撃した少年は無傷で、兄が代わりに撃たれて瀕死。ヤスジロウの妻の命を奪ったのが銃なら、チエコがあの若い刑事と出逢って、心の壁の一角が崩れたのもまた、銃によって引き起こされた事件の結果。リチャードとスーザンが和解したのは、スーザンが撃たれたから。この夫婦の子供たちは、乳母の息子の結婚式に連れられてメキシコに渡った事で、新しい世界を知るが、最後は恐ろしい目に遭って、長年一緒に暮らしてきた乳母とも別れる事になる。――等々、良い事の裏面に悲惨な事があり、苦痛の中に友愛がある。

必要以上にプロットに凝らず、現実にあり得そうな程度の関連性しか各国パート間に置かなかったのも、現実と向き合う誠実さの表れなのだと思える。

言語の壁、国境の壁、偏見の壁、つまりはディスコミュニケーションの壁、人々の間の隔たりが、様々な困難を生じさせる。だが、最大の「隔たり」は、遠い場所で起こった、自分たちとは何の関係も無いような出来事が、巡り巡って、自分の存在を根底から揺るがし、喜怒哀楽を生じさせている事を、本人たちは知り得ないという事。個々の出来事の関連を知っているのは、この映画を俯瞰的に観ている観客だけだ。

だが観客もまた、所謂「神の視点」から俯瞰している訳ではない。手持ちカメラの揺らぐ視線を通して、間近で諸々の出来事を見守る我々もまた、同じ地表の上に生きる者の一人として、傍らに寄り添う者として、眼前に繰り広げられる出来事を見ていくしかない。ただほんの少しだけ、神の視点に近づいて、それを観ているのだ。それは、時間という第四の次元の線に沿っても出来事の繋がりを見ている、という点に顕著だろう。リチャードが自宅に電話をかける場面では、既に僕たちは、その電話を受け、彼らの身を案じる乳母が、この場面の後で、不法就労者としてメキシコに送還される事や、子供たちを危険な目に遭わせた事で、リチャードの怒りに触れる事を、知っている。だから、この電話でリチャードが彼女に、息子の結婚式に出席する事を優しく許す言葉を聞くのが、苦痛なのだ。そうした、前後する時間軸で物事を見るという超人間的な視点を得てはいるが、それ故に眼前の出来事の悲劇性を感じてしまうのは、やはり僕らがただの人間であるからなのだ。

映画の最後に、高層マンションのベランダで抱き合う裸のチエコとヤスジロウの姿を撮るカメラは、二人の姿を捉えたまま、夜の闇に包まれた宙を、ゆっくり水平に後退し、遠ざかっていく。天から見下ろす視点ではない。人々が立つ地表に沿って、ただ「距離」だけをとっていく。

この「距離」を自覚する事、隔たりを受け入れる事。一見すると人々を隔てる「壁」が全ての困難の元凶のように見えるが、実は、困難をもたらすのは、人々が抱く幻、錯覚としての「関係」なのだ。一発の銃弾と、テロを「関連づける」事。刑事が父を探している事と、母の死を「関係づけて」考える事。メキシコ人とアメリカ人の子供が車に同乗している事と、何らかの事件との「結びつき」を疑う事。逆に、人々が距離によってこそ繋がっていると知る事が必要なのであり、これは日夜なにげなく接しているテレビの報道などでは知り得ない事だ。むしろテレビというものは、人種や障害や国籍によるイメージの内へと、個々の人間を没する機能を果たしている。特に障害者に対して、僕らは妙に清らかなイメージを当て嵌めて、チエコのような生々しい感情を生きる障害者が居るなどと、普段は想像すらしないのではないか?その意味でこの作品は、安易な「物語」に事を回収させない映像としての映画の本分を果たしたのだと言える。

加えて、現実が、映画という枠の中に綺麗に収まるようなものではなく、その枠の「外」から続いて来、また「外」へと続いていくものなのだという事をも、描いている。リチャードとスーザンの間に何があって、二人にわだかまりが生じたのか、といった、映画の「前」の時間や、警官に撃たれた少年がその後どうなったのか、という、映画の「後」の時間は、曖昧なままに投げ出されている。また、チエコが刑事に渡したメモには何が書いてあったのか、それを読んだ刑事のあの表情は何を意味しているのか、という、この二人の間の「関係性」も、観客の視界から隠されている。この意味でも観客は、バベルを見下ろす神の視点ではあり得ない。これもまた、一つの「距離」の表現だ。

因みに、僕はこの映画をWOWOWの放送で観ていたが、日本のパートで、手話以外の台詞にまでずっと字幕が入っている事に、最初の内は不思議な印象を受けていた。だが、日本にも、チエコのように耳の聞こえない人が居るのであり、そうした人たちはこの字幕が無ければ日本のパートの台詞も理解できないのだ。目の前の画面で、聾唖の人物が映っているのに、僕はすぐにその事に気がつかなかった。こうした「距離」に一つ一つ気づいていく事が、距離を埋めるとまでは言わずとも、少なくとも「空白」を埋める事に繋がっていくのだろう。外国人監督の視点を借りているというのも手伝って、この国がひとつの異国でもあるという事を、日本人自身に感じさせる作品だ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)irodori ぽんしゅう[*] けにろん[*] TOMIMORI[*]

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