[コメント] ロッキー・ザ・ファイナル(2006/米)
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過去、『ロッキー』シリーズを観たのは一番最近のもので十数年前。この頃の私が若かったため今と映画の観方が変わっているのか、今作を観て、まず「『ロッキー』ってこんなに丁寧なヒューマンドラマだったっけ?」と驚いた。
美しい人々が出てくるわけではない、上品な街並みが舞台というわけではない。それでも、ごくありふれたアメリカの下町で生きる普通の人々が輝いて見える。それは、登場人物ひとりひとりが非常に丁寧な役作りと芝居をしているためだと思う。ポーリーの悲哀は言わずもがな、ブサイクな犬を連れて帰るロッキーの気持ちの描き方、レストランで皿洗いをする老いたスパイダーの卑屈な思い、試合前夜ロッキーの部屋にエイドリアンの写真を届けたリトル・マリーの何かを押さえたような表情、そして何よりも、TV番組のコンピューター試合でロッキーの活躍を観ながら同僚や周囲が大騒ぎしている中でのロバートの苦悩の演技は秀逸だった。
しかしそうやって人物を丁寧に描いた反面、ストーリーそのものは少々物足りなさを感じた。長い間苦悩していたはずの息子が改心するのがやけに簡単過ぎるし、試合後ディクソンが諸手を叩いて「本物のボクシングを教わった!」と泣いているのは幾らなんでもクサ過ぎる。
そういったストーリー上の都合の良さは「ロッキーだから」でまだ流せるのだが、自分が観たかった部分が物足りなかったのはとても残念だ。私は、逆境から立ち上がってトレーニングに打ち込み、試合に臨むロッキーをもっともっとたくさん観たかった。もっともっとたくさん、「ロッキー!ロッキー!」と観客と共に叫びたかった。だが前半のグダグダが長過ぎて、気分の高揚と興奮へのエンジンのかかりが遅くなってしまったように思う。例のメロディに乗せてロッキーがトレーニングで走り始めてから試合終了までが予想に反してあっさりして短く感じ、熱く燃えたぎり始めた私の魂はやや不完全燃焼気味。監督が一番描きたかったのは物語前半部分のロッキーや周囲の人々の苦悩かもしれないが、私が一番観たかったのは後半のトレーニングを重ねて戦うロッキーの姿だったのだ。
『ロッキー』シリーズに特別な思い入れは無い。なので「十数年ぶりに『ロッキー』を観る事が出来ただけで〜」という懐古の気持ちを取り除いてなるべくニュートラルな気持ちで観たつもりだが、老いてもまだ頑張るスタローンという俳優に対しては尊敬の念とも言える特別な思い入れがあったようだ。自分でもそれがあることに気づいていなかったが、この映画を観てハッキリ判った。その彼に対する思い入れのため、少々採点が甘くなったかもしれない。
尚、コメント冒頭部分でこの作品を『Rocky Balboa』と表記しているのは、既に他の方が書いておられる内容とかぶるが、私もこの作品の邦題は『ロッキー・ザ・ファイナル』ではなくて『ロッキー・バルボア』と呼ぶのが相応しいと思うためである。
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