[コメント] 監督・ばんざい!(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ファーストカットでいきなりド真ん中の主題である。ハリボテのキタノブルー君は輪切りにされ、空っぽになってしまった(あるいは元々空っぽだったかもしれない)その内実を晒す。この映画は還暦を迎えたキタノブルー君と北野武の、いま現在の断面図だ。
ところで、物語を構築する手法には大きく分けて2種類あるという話を聞いたことがある。ひとつは明確なテーマに沿ってキャラクターを配置し、それらを思い通り動かすことでテーマに帰結させる方法。もうひとつは「表現したいシーン」を最初に複数設定し、それを繋ぎ合わせて辻褄を合わることで矛盾のない物語に仕立てるという、いささかアクロバティックな方法である。前者の物語はメッセージが理解しやすい反面「説教くさい」「陳腐」などの批判に晒される恐れがあり、後者は「オナニー染みている」「よく解んない」など観客を不快にさせる要素を多く含むが、作家自身の無意識下のエモーションがより現出しやすいのだそうだ。
この話を真に受けるとするなら、北野武のストーリーテリングは恐らく後者だろう。彼の映画を思うとき、私の頭にはいつも「シーン」が浮かぶ。例えば沖縄のビーチでの紙相撲ごっこであり、場末のスナックで繰り出されるボクサーのワンツーストレートであり、校庭をぐるぐる回るふたり乗りの自転車だったりする。
前作『TAKESHIS’』は、とことん私を不安にさせた。北野武はもう映画を撮ることに興味がないのではないか、いやむしろ、近いうちに自殺するんじゃないかなどと暗澹たる気分で帰路についたのをよく憶えている。
だが、『監督・ばんざい!』を見る限り、私の不安は杞憂だった。どうやら武には、まだまだ撮りたいシーンが山ほどあるようだ。ただ世界中から押し寄せる身勝手極まりない“解釈”という名の怒涛に戸惑い、どんな物語を構築したらいいのか解らなくなっているだけなのだ。それでもこんなグダグダ映画を撮ってしまわなければならないほど北野武は映画が好きだし、撮らずにはいられない身体になっているのだ。そのことにたいへん安心したし、うれしかった。
作中、武はまずシーンありきで映画の製作を試みる。ギャング映画の中の北野がうずくまるチンピラを頭上から撃ち抜くシーンの鮮烈さはどうだ。盲目の画家と女性が防波堤にたたずむシーンの美しさはどうだ。『コールタールの力道山』に出演する子どもたちの、その表情の瑞々しさ、暴力性……まさに私が好きだった北野映画そのものじゃないか。
だが武は、シーンありきの映画づくりにすらもう行き詰まっている。そして「もうCGでいいじゃん」なんで軽いノリで、撮りたいシーンなど何もないままスペースオペラの製作に乗り出す。
撮りたいシーンのない宇宙SF映画はあっという間に迷走、脱線する。それでも武は最後までつくる。どれだけグダグダになっても最後までつくる。四半世紀以上に渡って“天才”と呼ばれ、名声と賞賛の中で還暦を迎えた北野武の「もう一度、ここで恥をかこう」という強靭な決意である。最大の武器だった“キタノブルー”さえ、武はズタズタに切り裂いてみせる。
ラスト、殻を破り、憑き物の落ちたような無垢な表情を見せた武は、女優に「あの人と一緒になる」と言わせた。そしてすべてのフィルムを焼き払った。ならば、スジを通さなきゃならない。こんな映画をつくるのはこれ限りにしなくちゃならない。
大丈夫だ。北野武はまだ死んでいない。
自分で積み上げた金字塔を力ずくで蹴り崩し、まだ前に進もうとしている。
あと何本、武は映画をつくれるだろうか。彼は間に合うだろうか。人は老いる。彼だって老いる。
『監督・ばんざい!』は悲しくて力強い映画だった。だけど、★5はまだ“そのとき”のために取って置こうと思う。
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