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[コメント] ゾディアック(2007/米)

確かに衝撃性は無いが、人間の――その一員である観客自身の隠微な犯罪愛好心を炙り出す不気味さに於いては、あの『セブン』など遥かに凌駕しているのではないか?悪夢の隙間を往き来するようなフェードアウトの緩いリズムに揺れる事の空虚感と、黒い陶酔感。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







事実を淡々と、だがスタイリッシュに映像化したという感触のこの映画、間髪おかずに新事実、新展開を提示してくる切れ目の無い進行によって、ついつい引き込まれてしまう。実在の人物達を扱っているせいか、ゾディアック事件に関係する部分以外はあまり人間模様を掘り下げていず、例えば主人公格の最たる存在である漫画家グレイスミスと家族の葛藤はさらりと流されている。だがその事によって、「謎」が個人の生活の他のあらゆる要素を吸い取り紙のように吸い取ってしまう様が、ドライな映像と共に強く印象づけられる(大雨が降っていてさえ何故かドライな感じを受ける)。

その印象が最も実感できたのは、終盤、グレイスミスが情報提供者ヴォーンと直接会う場面。ヴォーンの家で資料を見せてもらう事になったグレイスミスだが、ヴォーンの元同僚がゾディアックである可能性を示している筈の映画ポスターの文字が、実はヴォーンによって書かれていた事を彼自身から告げられ、動揺する。そして地下室に招き入れられ、更にグレイスミスの恐れは増す。そこで彼が言った台詞は、「ご家族は?」だ。家族が居れば、今、その場で殺人を犯すような事はしない筈。結局、グレイスミスは何事も無く帰宅できたのだが、事件の追究に心を奪われた彼を見捨てて、妻子が居なくなっている。

グレイスミスが、事件を追う人間としてテレビに顔を曝し、深夜に電話がかかってくる状況に、遂に妻は耐え切れなくなった訳だが、要は、事件解決を目指している筈の行為が、却って家庭の中に恐るべき事件を四六時中据え置くような事になっているのだ。この、殺人事件に魅入られた男の、吸血鬼にでもとり憑かれたかのような生活の崩壊ぶりには、この映画が本質的に、サスペンスだとかスリラーというよりは、観念的なホラー映画とも呼ぶべき性質を持っている事を感じさせられた。

刑事、記者、警察、様々な者達が事件の風化にいつしかそのまま身を委ねるようになっていく中、一人グレイスミスが奮闘していくのは、彼が何の職業意識も無く、パズル好きの漫画家でしかないからだと言える。つまり、そもそもが興味本位で始めた追究であるから、彼自身の個人的な興味が尽きない限りは終えられないのだ。誰も居なくなった自宅で妻の置き手紙を見つけた直後にも、事件に関するインスピレーションを得て、興味はそちらにすぐさま向かってしまう。彼も、初めの頃は、ゾディアックの脅迫文に「スクールバスを標的にする」と書かれてあった事が気懸りで自分の息子をバスから降ろしたりはしていたが、この息子がまた、父親と並んでテレビでゾディアック事件に興味津々の眼差しを向け、他の子達も父の暗号解読に助力する。これは、家庭がゾディアック一色に染まる様を感じさせると同時に、グレイスミスの好奇心が幾分か子供じみている事をも同時に印象づけていて、巧み。

面白いのは、ゾディアックは実は、特に大犯罪者というほどの特異な存在とは言えないような面がある事だ。意味深なマークも、ゾディアックの名も、新聞に載っていた時計の広告、そのブランド名とマークを借用したに過ぎないようであるし、自分が犯したと言う犯罪も、既に報道されていた他人の犯行を横取りして宣言した疑いが出てくる。昨今の映画に登場するような異常な犯罪者に比べると、随分大人しい犯罪者に思えてしまうのだ。

だが、その点こそが重要な所。つまり、ゾディアックとは、マスメディアが流布する情報を繋ぎ合わせて出来た擬似人格、フランケンシュタインめいた存在である。ゾディアックと名乗る男が、テレビに弁護士を呼び出して、電話を通しての対話を試みた場面など、電話という顔無き声、テレビという、顔無き大衆が一斉に覗き込む空間、そんな匿名性がゾディアック菌の繁殖を促がしていく。警察に群がる情報提供者の群れなど、まるで祭に参加しなければ損とでもいうかのような雰囲気すら漂っている。こうした空気に乾いた視線を向けるデヴィッド・フィンチャーの、カット割りや選曲のセンスは非常に的確であったと思う。

ゾディアックが時計のブランド名であった事に呼応するかのように、多くの人間の「時間」を奪っていくゾディアック事件。フェードアウトという手法がこれほど相応しく感じられた映画もそうは無い。それは何も、事件の真相そのものが「フェードアウト」したからという訳ではなく、真相を追っても追っても掴めない者達の、重い疲労感と、時間の損失という「ダルさ」が、瞼が下りるように黒く沈んでいく画面から滲み出るからだ。そう、テンポの良さと、それに相反するかのような、徒労感。この二つの奇妙なブレンド感こそ、僕がこの映画の味わいの素だと感じる所だ。

数々の「それらしい」情況証拠は揃いながらも、決定的な箇所で人々の手をすり抜ける真実。この、調和しそうでいながら不調和に終わる展開に、不協和音を孕んだピアノ曲がよく合う。パズルのピースが合いそうで合わない「寸止め」のむず痒さが、奇妙で隠微な快感にすら転じてしまう事を、声を低めて囁くようなこの映画は、あの『セブン』よりも背徳的である。

この、端折ろうと思えば端折れそうな、少し無駄に長い尺が生む徒労感が絶妙と言える。「少し」長いと感じる按配が的確。まあ、これ以上長かったら企画自体が通り難いのかどうか知りませんが。

(評価:★3)

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