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[コメント] アヒルと鴨のコインロッカー(2006/日)

「ボブ・ディラン」「ブータン人」「鳥葬」などのコケオドシとしか思えなかった突飛なキイワード群が次第に物語にとって代替不能な要素として働き始め、おもむろにテーマを浮かび上がらせる。感心する。だが説明的すぎて私には受け入れがたい映画だ。私は説明を受けたいがために映画を見る観客ではない。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







なるほど、叙述トリックを用いた小説が原作だそうで、だとすればむしろこれは積極的に「説明」の映画だと云ったほうがよいのかもしれない。復讐劇は決して復讐劇として現前化することなく、あくまで説明を介してのみ濱田岳/観客に提示される。濱田も私たちも物語に立ち入ることを許されていない。事後的な説明を待ってしか物語と交われない。そこに生じる「距離」が切なさを喚起する。

切なさとは距離だ。瑛太のキャラクタについて見てみよう。彼は「河崎」を名乗る。また彼の衣裳にしてもほとんどすべての言動にしても河崎=松田龍平の模倣/反復であったことが終盤までに明らかになる。復讐を果たすためだけであればそんなことをする論理的な必要性はまるでない。それでも瑛太は松田を模倣/反復する。模倣/反復とは対象との距離の無化を目指す行為にほかならないからだ。しかし、もちろん松田はもうこの世にはいない。死が設けた絶対的な距離を前にして、徒労に終わるしかない「距離の無化」を繰り返し試みる瑛太。ここでも切ないのは、やはりその距離の在り方だ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (7 人)disjunctive[*] ロープブレーク[*] おーい粗茶[*] のこのこ 林田乃丞[*] 煽尼采[*] ぽんしゅう[*]

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