[コメント] 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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腑抜けというのは、肝がすわっていないとか、意気地がない、あるいは間抜けということだ。じゃあ「腑抜けども」とは誰のことなのか。その当事者たちは、はたして愛を見せたのか。
女優、女優とわめきたて、自身の才能の欠如という現実を正面から受け止めることができない澄伽(佐藤江梨子)は、ただ甘えという殻に逃げ込むだけだ。現実を生きるということに対して肝がすわっていないのだ。安易に自分を売ってしか金の稼げない、人生に対して腑抜けた女だ。しかし、その悲しみは伝わってこなかった。
都会の捨て子として生を受け孤独とともに育ち、30歳過ぎて地方の地縁という幸福を手に入れた待子(永作博美・孤児という境遇で「待つ子」とはなんと凄い名前だ)は、義理の両親や夫の死にさいしてもたいして動じない。それほど「幸福」に対して鈍感なのだ。彼女もまた、長年の孤独から身を守るために、現実を生きることに対しての肝が喪失している。彼女の腑抜けぶりは、悲しく、恐ろしくもあった。
清深(佐津川愛美)は現実を見ていた。ただ、その現実は彼女には、ホラーマンガのネタとして消化されるほど「面白い」非現実的なものとしてうつっていたのだが。彼女もまた、姉の強圧と、周囲の人びとに対する良心の呵責のなか、自分の将来を託すべき創作行為という冒険に対して肝がすわっていなかった。待子の不気味な人形を置き去りにして、どこまでも付きまとう泥だらけ澄伽を黙々とデッサンする彼女には、ほんの少しだけ悲しみの愛が見えたような気はしたが。
みんな、悲しくも素敵な腑抜けどもだったのに・・・・。この設定は、原作に負うところが大きいのだろうか。こんなに面白い話しなのに、見えそうで見えない「悲しみの愛」の断片が雑然と2時間に渡って、一貫したトーンを欠きながら延々と繰り広げられただけであった。もったいない映画だ。
吉田大八監督の次回作には期待したい、とは思う。
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