[コメント] 家庭日記(1938/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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物語は佐分利に寄り添いながら進み、終わる。彼は出世のために恋を捨て、バーの女給を蛇蝎の如く嫌い、過去の恋愛事件を疑う妻に逆切れして話を終わりにしたつもりになり、再会した元恋人を金で面倒を見ようとする。
戦後映画ならボロカスに非難されるだろうこの旧民法の体現者のような男について、本作は何も判断を下さず、ただ自然主義的に放っておく。揚足を取って桑野を追い出そうとする藤野秀夫は佐分利の似姿だ。佐分利が唯一人間らしい処を見せるのは、その藤野に桑野について尋ねられたとき答えを拒む件だが、これだって答えられないような女なのだなという藤野の誘導尋問を否定できない。
だから収束の、桑野を見直したという佐分利の言葉はいかにも取って付けたようで、ただ周りの空気を読んで処世を微調整しただけに見え、ハッピーエンドと受け取るのはいかにも無理がある。むしろ、最後まで映画は佐分利の主観に寄り添っているのだなあと確認されるばかりで、世の中は藤野−佐分利ラインの旧民法的な事なかれ主義で回っていたのだという、何か民俗学の資料を紐解いたような禍々しい発見がある。そんななか、桑野ら女は他に逃げ場なくただ藤野−佐分利の善意に縋るばかりなのだ。戦前のメロドラマは非情だ。
佐分利の強面で全てを通していく造形は抜群、昔の頑固親父そのものだ。桑野の造形がまた素晴らしく、だらしのなさと誤魔化す嘘、ピントの外れた饒舌など天性のトラブルメーカー振りは、当時の「女給風情」に対する世間の容赦のなさが垣間見える。上原謙の転職のための物件探しだって、上原と話をした様子もないから彼女の一方的な思い込みだったに違いない。両夫婦が一同に会する件、桑野が喋っている最中に佐分利が上原に別の話を始める呼吸は物凄く、記憶に残る。もうひとつの名シーンは桑野対藤野。直前の大通りで息子を見つけてから(ここでも秋の虫の鳴き声がする)対決に至る桑野の呼吸のリアルさは実に切ない。あの啖呵には岩下志麻のようなパロディのニュアンスが全然ないのだ。
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