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[コメント] その名にちなんで(2006/米=インド)

言葉、音楽、移動。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







アシマは、夫となる見合い相手アショケの靴に「U.S.A.」と書かれてあるのを見て、その靴を履いて歩いてみる。彼女がこの男と結婚したのは、後に彼に語って聞かせた所によると、「他の男よりましだったから」。そうした他愛のない理由で人の運命は方向を決めていくもの。彼の靴を履くという行為は、「移動」を共にするという事の暗喩に他ならない。

アショケが最期に辿り着く場所は、一人、白く殺風景なホテルの一室。息子のゴーゴリが父の死後そこを訪ねた時、父がよくそれを履いてプールサイドを歩いていたという靴を履いて泣く。「移動」の果ては、この「無」だったのだ。だがその「移動」を象徴する靴を履いて、彼の痕跡を身に引き受ける息子の存在は、かつてのアシマとの結婚と同様に、アショケの生きた証しとなったと言える。アショケの孤独そのものとも思える「白」は、続く場面で妻と息子達が彼を悼んで纏っている布の白さに引き継がれているように思える。

物語の展開は意外に速く進むのだが、観ている間はガンジスの流れを眺めるような淡々とした時間感覚を覚える。記憶の反復と、場所の変転。次々と起こる出来事が淡々として見えるのは、物語の全体が、更に大きく速やかな時間の流れの中に置かれているからだろう。ちょうど、ガンジスの流れの上での泡や飛沫が、ガンジス全体の中では小さな出来事として感じられるように。

ゴーゴリは、父の葬儀に出る際に、かつてその父が義父の葬儀に出かける前にそうしていたように、髪を剃る。これは、アメリカで生まれ育った彼がベンガルの風習へと回帰する場面ではあるのだが、スキンヘッドになっていくゴーゴリの姿に重なるのは、スキンヘッドから彼が連想したと思しきヒップホップ。ベンガルへの回帰と、身に沁みついたアメリカ文化とが、同時に描かれている訳だ。

これと同じく、この映画で音楽は、文化や国を示唆する記号として機能している。ゴーゴリが父からゴーゴリ短編集を贈られる場面でも、彼は父よりも、大音量で流している音楽の方に注意が向いている。音楽の重要性は、冒頭で登場した、楽器を手にした女神像や、同じように楽器を奏でながら歌うアシマの姿によって示されていた。

音楽の他、文学もまた同じような位置を占めている。ゴーゴリの父はロシア文学を愛読しているようだし、妻はフランス文学の愛好家だ。この二人は共に、大学で教える為に配偶者の許を去る。更にゴーゴリの妻は、本に書いてあった「ピエール」という名の男の事が忘れられず、結婚生活は破綻する。だがゴーゴリが父の愛を確認するのも、ゴーゴリ短編集に書かれてあった父の言葉なのだ。絆と別れ、その両方を、言葉が担っている。

この両義性は、アシマが故郷に帰ろうと決意し、アメリカを去る時になって、そのアメリカをもう一つの故郷として懐かしむ言葉に、最も美しい形で表れている。何かを、誰かを惜しむ事、その不在を哀しむ事。その時に最も純粋に、対象との絆が感じられるのだ。その事は、ゴーゴリの家族が、身も心も離ればなれになっている場面が大半である事と相俟って、より痛切な感じられる。

或る男の外套を巡る物語、ゴーゴリの『外套』と、アショケが列車の中で出逢った男に言われた言葉、「枕と毛布を持って、世界を見に行くんだ」。この二つは、人間は本来無一物だという事の、哀しみと希望とを、共に語ってくれている。

因みに、「我々は全てゴーゴリの『外套』から出た」という言葉は、ドストエフスキーのものであるらしい。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)はっぴぃ・まにあ

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